◆クリストファー・アレグザンダー 『ザ・ネイチャー・オブ・オーダー』

秩序の本質

クリストファー・アレグザンダーの大著の一冊。四巻からなるシリーズだが、現在のところ邦訳は一巻のみ。
この本では美とは何かについて書かれている。人はどのようなデザインを好ましいと感じるのかが独自の分析で語られている。取り上げられるものは建物だけでなく、食器や絨毯や風景写真など様々だ。

まずはじめにアレグザンダーは、私たちの価値観や判断基準が合理主義に支配されていると主張する。これは現在、私たちがごく当然のものとして受け入れている科学的な思考方法のことだ。つまり「自然の法則」というものがあり、それが全てを支配しているという考え方といえばいいだろうか。

これに対し、アレグザンダーが本書で主張しているのは、全てにおいて「秩序」というものを重要視するものだ。建築の根本問題も、この「秩序の本質(ザ・ネイチャー・オブ・オーダー)」だと述べる。

クリストファー・アレグザンダー
(https://ja.wikipedia.org)

デカルトの機械論的思考方法

秩序とは何かという問いに答える、あらゆる理論はみな不適当だとアレグザンダーは言う。芸術の秩序、建築の秩序、感じることが出来てもそれを説明することはできない。

アレグザンダーは次のように書いている。
「20世紀、私たちは科学によって世の中の身の回りにあるすべての秩序を説明することが可能である、という幻想を抱いてきた」
「しかし、メカニズムとして特定のものを説明しているに過ぎない」
「ある種の秩序の部分的な世界観でしかないが、それが全てになってしまっている」

20世紀の思考方法はデカルトからはじまっており、それを「機械論的思考方法」と呼んでいる。そこでは「私」というものを世界観から外して考える。つまり、「私がどう感じるか」よりも、「世界がどうあるか」を重要視する考え方だ。世界から「私」を取り除いてしまった、この客観的で機械的な方法を採用したことで、価値についての理解が消えてしまった。

「真偽はどのように説明できるか」という問いに対し、デカルトでは「事実」という指標のみだが、アレグザンダーは真偽を説明する指標として「生命」「調和」「全体性」の相対的尺度、を取り入れる。

建築家はそれぞれの個別の価値観を持つ。異なる人々の価値観を組み合わせる理論的で一貫した方法はない。
「街の区域をどうするべきか、ある人は貧困問題がもっとも重要、ある人はエコロジーが重要、ある人は交通が、ある人は開発の利潤最大化、というように」

ではどうすればよいのか。アレグザンダーが提唱するのは、「ポスト・デカルト的」「非機械論的思考」だ。

最初の問い、「秩序とは何か」について、アレグザンダーは答える。
「「秩序」の基礎として認めている構造は主観性なのです」
「「秩序」は私たちの人間性から切り離せない」
「デカルト的ジレンマを解消し、「外」にある客観的現実と「内」にある主観的現実が完全に結びついているような「秩序」の視点をつくる」

私たちがどう感じるかという点を起点とする思考方法だ。この方法は本書の全体を覆っている。

よい秩序の例として
掲載されている、大雁塔
(https://ja.wikipedia.org)

生命を感じること

アレグザンダーは言う。
「より広義な「生命」の概念を探ろうと思っています」

この世のすべてのものは一定量の「生命」を持っており、それは石も木もコンクリートも皆、一定量の「生命」を持っていると主張する。

ここでさまざまな「モノ」を例にだす。古代クレタ文化のミノアの瓶、デンマークの住居の中庭、イスファハンのマスディシャ、モスクに使われているタイル、韓国の急須の台、ロマネスク様式の柱頭、トルコの礼拝用の敷物、ダラムの福音書という7世紀の福音書の写本、カタルーニャの手彫りのマドンナ像。

これらの写真を掲載し、そこに「濃密な「生命」を感じ取ることができる」と述べる。「生命」の感覚は、粗末な小屋やスラム街にも表れる。何か直接的で人間的な質が存在し、人々の直接的な体験や悲劇や哀れみや無知や思いやりなどが渾然一体となった力が存在すると述べる。

本書では多くの「実験」が出てくる。アレグザンダーが受け持つ学生たちを対象に2枚の写真を見せ、どちらをどのように感じるかなどのアンケートをとるのだ。

「建築学科の学生110名に二枚の写真を見せて、どちらに「生命」を感じるか。」
「バンコックのスラムとポストモダニズムの住宅。誰一人、ポストモダニズムの写真を選ばなかった。」

そしてアレグザンダーは断言する。
「現代の流行の建築は中身がないのです。その信奉者は、建築に「生命」を見ることを拒否しています。」

この「生命」は「全体性」から生じるという。そして「全体性」の基本単位は、実体としての「センター」だという。「全体性」と「センター」は本書におけるアレグザンダーの主張の重要なキーワードだ。

イスファハンのマスディシャ
(https://ja.wikipedia.org)

全体とは何か

アレグザンダーは書いている。
「芸術家や建築家のほとんどは直感的に建築が本来「全体」として機能することを知っています。」
「全体性は部分でできており、「『部分』は『全体性』からつくりだされる」」
この一見矛盾する論理こそが、「全体性」の本質を根源的に表現している、と述べる。

アレグザンダーは、部分も局所的全体も「センター」と呼ぶべきだという。これは、しかし中心という意味ではない。「全体」というと、その境界をはっきりさせなくてはならないが、「センター」というとき境界は曖昧になる。

「これは、この世に存在するすべての実体に言えることです。これらを「全体」もしくは「実体」として捉えようとすると、それらの境界や区別に意識がいってしまいます。しかし、これらを「センター」として捉えるなら、それら相互の関係性に意識を持っていくことができます。」
これは重要な指摘だ。

また、「部分の集まりが全体」と考えるの誤りであり、最初に「全体」があり、そのなかの「部分」が定義される。
「花は花びらからつくられるのではありません。花びらは花における位置とその役割によってつくり出されているのです。」

そして「全体」ではなく「センター」として捉えると、あるセンターはより大きなセンターの中にある。
アレグザンダーの論理が展開していく。
「「センター」は他の「センター」によってのみ定義することができるある種の実体なのです。」
「「センター」は、他の「センター」からしかできていない」
「これらの「センター」の本質は、それゆえ再帰的、循環的にしか理解できない」
「これが、機械論的な考えに染まった人にとって、「全体性」がとても神秘的に見える所以となります。」

これまで述べた文章を振り返ると。
「芸術家や建築家のほとんどは直感的に建築が本来「全体」として機能することを知っています。」しかし、「芸術の秩序、建築の秩序、感じることが出来てもそれを説明することができない。」

なぜなら、全体あるいはセンターの本質は、他のセンターによって再帰的、循環的にしか理解できないので、説明しようとしてもトートロジーに陥ることになるからだ。芸術や建築について直感的に理解していても、それを客観的、機械的に説明することはできない。

柱に「センター」の強さがある、パエストゥムの神殿
(http://ja.wikipedia.org)

15の特徴

あらゆるものに「生命」があると主張するアレグザンダーは、もちろん空間にも「生命」があると主張する。その「生命」は「センター」の構成要素とその多さに起因している。そして「生命」を持つために繰り返し現れる15の構造上の特徴を探し当てたとアレグザンダーは述べる。

ここで本書で最も重要な主張である15の特徴が説明される。多数の写真を参照し、ひとつひとつの特徴について述べられる。ここにある15の特徴が顕著なほど「センター」が強調され、「生命」を強く感じさせることになる。

1.「スケールの段階性」
これは、さまざまなサイズのスケールを持つものがあるほうがよい。ひとつひとつセンターとなり、そのセンター同士が相互に助け合うかたちをとる。センターが次のセンターに確実に生命を与えるときにのみ正しく生まれる。しかし異なるスケールの間の落差が大き過ぎてもダメだという。

2.「力強いセンター」
中心となる強いセンターがあること。力強いセンターは、ほかの強いセンターや、センターの重なり合いによって成り立つ。多種多様なスケールで生きているものの中に「センター」の存在を感じることができ、そしてこの多数の異なった水準の「センター」によって見るものの心をつかむことができる。

3.「境界」
センターを囲む境界。その囲むセンターに目を向けさせる、センターを強化させる作用がある。

4.「交互反復」
センター同士が補強し合う最も効果的な方法。単純な反復よりも交互反復のほうがより充足されていて、より深みがある。

5.「正の空間」
実体とともにその他の部分にも良い形がある状態。貧しいデザインは、実体に良い形を与えようとして、背景の空間が残りもののようになる、もしくは形をまったくもっていない。それは正の空間とは言えない。

6.「良い形」
シンプルで基本となる良い形は、基本図形からつくり出される。高度な内的シンメトリー、左右が対であること、よく目立つ「センター」などがその条件。

7.「局所的に現れるシンメトリー」
包括的シンメトリーは生命および全体の強い源にならない、建物全体のシンメトリーではなく、建物の部分と全体の中の小さな「センター」との局所的なシンメタリーがいい、とのこと。

他に、「深い相互結合と両義性」、「対比」、「段階的変容」、「粗っぽさ」、
「共鳴」、「空」、「簡潔さと静謐さ」、「不可分であること」と続く。

なかでも最も重要なのことは、「不可分であること」であり、それは外世界と一体化していおり、孤立していないことを差す。ひと言でいえばバランスがよいということであり、周りのものから切り離されていたり、唐突過ぎたり、鋭敏すぎたりしないことが重要だ。

「交互反復」の例、
ブルネレスキの捨子保育院
(https://ja.wikipedia.org)

生命はどこにでも存在する

アレグザンダーは、あるものが自然のなかでうまく機能するかどうかは、それが健康的な人間自身によくにているかどうかがポイントとなるという。それは建築であっても同じだ。

私たちの心を驚かす仕事の数々、偉大な作品とは、より深く全体的であり、生命に満ち溢れている。そしてこの生命は建物の中にも生じている。

生命とはどのように私たちの目に映るのか。キーワードは「全体性」と「センター」だ。「全体性」は「センター」で構成され、「センター」は空間として表れる。「センター」により「全体性」が強化されると、それらを「生命」として体験することになる。

本書では2枚の写真を掲載し、「どちらが自分らしいか、自分自身を反映しているか、自分らしさを表現していると感じるか」、という問いに対する、一般的な答えを提示する。

結論として次のように書いている。
「実のところ、人々が本当に深く好きであるものは、非常に高い精度で自分らしさを反映している特質があることは確実に断言できます。これは私たちが成熟するとき、私たちの個性や若さの恐れが取り除かれ、自分自身の好き嫌いが徐々に収束し、本当に好きになることとは、他者と共感するような深いものであることに気がついていきます。」

「私は文化ごとに多様性があり、気候の違いがあり、地域ごとの差があり、その違いをもとに建築が建てられていることは十分に理解しています。このような多様性の存在は疑いようもなく確信しています。しかし、最も基本的な建築の原則は、1.人々が何を望んでいるかを問うてみること、2.次に彼らの内部から生じるそれらに対する反応の「大切なもの」を発見し、それを保全するように間違いなく提供することのふたつです。」

ダラムの福音書
(https://en.wikipedia.org)

主観的であることが重要

これまで、デザインが優れているということには、客観的に判断可能な基準があるとされてきた。しかし、そうではなく、あくまでも人々の主観によって決められているというのが本書の主張だ。主観というものは、各人によって感じ方が異なるものだと考えられている。しかし、アレグザンダーは言う。
「私が主張した手法の何が新しいかというと、内面的な体験を通じて正確に見ることができが可能であるという事実から、人が体験する時間的および基本的な部分は、主観的とか個人的なことであるとは分類されないということです。代りに、それは、観察者の外側にある現実世界の構造を測る基本的な道具として、理解され用いられるのです。」

つまり、どのような人に対しても同じように感じさせる「何か」があり、それを解明しようという試みが本書だ。その試みは、前述した15の特徴に集約されている。機械主義的概念から抜け出し、内面の感覚で価値を計る試み、そこには自身の内面に同じ効果を発生させる「生命」があると本書は語っているのだ。

【関連】
クリストファー・アレグザンダー 『都市はツリーではない』