-ルネサンスとマニエリスムだけではない-
十六世紀のイタリアとは
本書は、十六世紀のイタリアの建築について書かれている。
当時、イタリアはいまのようなひとつの国ではなく、ヴェネツィア共和国、ミラーノ公国、マントヴァ公国、ローマ教会領、ウルビーノ公国、トスカーナ公国、ナポリ王国などに分かれていた。
そのなかで強い影響力をもっていたのはローマ教皇とフィレンツェのメディチ家だった。
当時の建築で見るべきもの、歴史に残っているいるもの、そのほとんどがいわゆるパラッツォとよばれる大型の建築物であり、それら建設には富と権力を持つ教皇や貴族の支援が必要だった。
ブラマンテからはじまる
コーリン・ロウは、本書をドナト・ブラマンテからはじめる。
ブラマンテ以前のローマの建築について、「新しい建築は語るべきものに乏しい」とロウは言う。
それほどブラマンテはイタリアの近世建築史において決定的な仕事をおこなったということができる。
ブラマンテはルネサンス期を代表する建築家であり、その評価の高さは古代ローマの建築を近世によみがえらせたとして定着している。
レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』のあるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会や、カトリック教会の総本山であるサン・ピエトロ大聖堂の改築計画を当時の教皇の指示のもとでおこなっている。

サン・ピエトロ広場
(https://ja.wikipedia.org)
十六世紀に入る前、ブラマンテは最初、画家としてそのキャリアをスタートした。
とはいえ最初期の仕事に関しては記録に残ってはいないので推測でしかない。
ブラマンテは地方都市のウルビーノの出身であったが、北イタリアを遍歴し、当時の大都市であるミラーノに到着する。
ここから少しずつ建築の仕事にかかわりをもつようになる。
多くは古くからある教会の改修や再編成の仕事である。
これらの仕事をとおして、ダ・ヴィンチやフランチェスコ・ディ・ジョルジョなどともかかわりをもつ。
フランチェスコ・ディ・ジョルジョは、ブラマンテやダ・ヴィンチに大きな影響をもたらした、画家であり彫刻家であり建築家、建築理論家でもある、ルネサンス初期の芸術家である。
一四九九年、ルイ十二世のフランス軍がミラーノを支配する。当時五〇代になっていたブラマンテは避難民としてローマへ移住する。