◆磯崎新 『建築の解体―一九六八年の建築情況』
 

-「解体」のあとになにができるか-


 

モダンとポストモダン

 ポストモダンという言葉はいまでは死語となってしまったかもしれない。
 いまポストモダンと聞くと、過去のある時代の思想状況を思い浮かべる人もいるだろう。

 ポストモダンという状況が現在でも変わらずに存在するかというと、そうとはいえないだろう。それはすでに終わってしまったものだといえる。しかしながら、その次になにがあったかというと、うまく説明することができない。

 「モダンからポストモダンへ」という一文は、たとえばヴィトゲンシュタインが設計したようなシンプルな住宅から、より個性的である種の混沌さをもった住宅へと変化するようす物語っている。

ウィトゲンシュタイン設計のストーンボロー邸(wikipedia.orgより)

ウィトゲンシュタイン設計のストーンボロー邸(wikipedia.orgより)

 つまりそれは洗練された無機質さから、特徴的な性質をもったものへと変化したということだ。

 ポストモダンとひと言でいっても、それぞれが異なる性質をもったものとしてある。
 そのため同じポストモダンとして語られるものでも、まったく違った印象を与えるのである。その混沌とした状況をひとくくりにしてポストモダンとよんでいるのであって、ポストモダンそのものに固有のスタイルがあるわけではない。

 ポストモダンという語はそもそも「モダンのあと」という意味であり、その命名のされかたからも、状況そのものをあらわすことが困難なことを示している。
 「モダン」という語が指し示すものをイメージできたとしても、「ポストモダン」という語が指すものを同じようにイメージすることはできない。

 

「解体」とはどういうことか

 磯崎新が本書のなかで「解体」としてとらえているのは「モダンの解体としてのポストモダン」であるとひとまず言うことができる。それがどのような「解体」かを語るとき、個別のケースを列挙していくしかない。

 本書ではポストモダンの代表的な建築家、あるいは建築グループである『ハンス・ホライン』『アーキグラム』『チャールス・ムーア』『セドリック・プライス』『クリストファー・アレグザンダー』『ロバート・ヴェンチューリ』『スーパースタジオ/アーキズーム』を題材にしている。

ヴェンチューリの代表作、『母の家』 (http://storiesofhouses.blogspot.jpより)

ヴェンチューリの代表作、『母の家』
(http://storiesofhouses.blogspot.jpより)

 豊富な資料をもとにして建築家たちの活動が詳細に述べられている。
 それは他でもない磯崎自身がポストモダンを代表する建築家であり、彼らと近しい関係で活動していたからこそ可能なことであった。
 本書にある資料も、その対象となった建築家たちから直接借りたものが多く使われているという。

 ここで各題材ごとに内容の要約を述べることは意味がない。
 本書では、細かく各建築家たちの活動をレポートしており、情報量の多さに圧倒されるがとくべつ難解な内容ではない。

 「解体」として語られていることはそれまではなかったやりかたで建築をとらえなおし、作品を発表しているということである。
 しかしその方法は決して同じものではなく、それぞれ異なるやりかたでおこなわれている。それこそがポストモダン的な状況なのである。

 かつては「〇〇建築」という単語で、ある時代の建築そのものを語ることが可能であった。たとえば、ゴシック建築であったり、近代建築であったりというように。
 それがポストモダン的な状況においては不可能になった。できることはひとつひとつを個別に語るしかない。それもそれぞれの共通項を探すようなやりかたではなく、それぞれの個別性を明確にしていくようなやりかたで。
 そのために内容は細かな部分にまで及び、まとめて語ることは不可能なのである。

 

ポストモダンのあとになにがあるのか

 この状況のあとにくるものをどのように語るべきだろうか。
 ポストモダンのあとに続く状況、すなわちポスト「ポストモダン」ともいうべきものを表す言葉をわれわれはもっていない。

 それぞれが個別に活動し、その影響下で育ったものたちもさらに個別に活動する。
 建築家はひとりがひとつのスタイルを持って作品を発表している。それは作風などという、なま易しいものではなく、同時代であることすらも拒絶するようなものでなければならない。

 他の誰かとの相似性を指摘され、同種のグループとされたとき、それは時代とセットにされ、古びていく宿命を負う。
 ちょうど磯崎が「建築の解体」で参照した建築家たちがまさに「ポストモダン建築家」として、いまでは「古い」ものとなってしまったように。

 ポストモダンについて語ることは、「反」モダンとしてのありかたを列挙することで可能であった。
 それこそが<唯一の共通のもの>としてあったからだ。
 もしかすると、それは建築について語ることが可能だった最後の瞬間であったかもしれない。

 いま建築について語るのであれば、建築家ごとに個別に語るしかない。そうではない建築家は淘汰されていくしかなく、生き残ることが出来ない。

 

「不在」が存在するということ

 「解体」されたあとにつづく「建築」がない状態で、できることとは個別に語ること以外にはないのだろうか。
 磯崎は本書において、各建築家の活動を個別に述べたたあとに「《建築の解体》症候群」としてまとめている。

 ここで磯崎は、aではじまる五つのキーワードを設けている。
それは
 「apathy」
 「alien」
 「ad hoc」
 「ambiguity」
 「absence」
というものである。
 この五つのキーワードは「解体」に共通するものだと磯崎は考え、それぞれにあたる建築家たちの作品と言葉を引用し構成する。

大分県立図書館(http://arc-no.com/より)

大分県立図書館(http://arc-no.com/より)

 そして最後の「absence(不在性)」についてはそれがまさに<存在しないこと>を述べて終わる。

 このキーワードが「不在」である以上、ここに該当する建築家をあげることはできない。
 しかし実際には「解体」から現在にいたるまで世界中で多数の建築作品はつくられ続けている。
 それをつくった建築家も存在し、さらに新たな建築家もつぎつぎと誕生している。それにもかかわらず、「不在」がキーワードだというのはなぜだろうか。

 「不在」というとき、存在しないものはなんなのだろうか。それは「主題の不在」であるという。
 主題の不在とは現代建築がいやおうなしにひきずりこまれてしまった地点だと磯崎はいう。主題のない「建築」はそれ以上「解体」することは不可能である。

 

解体するものがなくなったときに

 建築を「解体」していけばやがては「解体」するものがなくなる。
 これは建築に限ったことではなく、ポストモダン以降の状況を説明し難くしている原因もここにある。

 かつてあったものを「解体」していくことにポストモダンたる所以があった。その後、「解体」されたあとになにかを構築、あるいは建築することができただろうか。

 つねに新しいものを求めるがゆえに古くなることを避けようとし、そのためには誰にも似ていないものを作るしかない。
 自分自身の過去の作品からも自由に、<新しい>ものをつくる必要がある。そのため斬新であることや奇抜であることに価値が見出されるような状況が続いてきた。

 そしてこの<新しい>ということをひとつの共通項として、それを乗り越えようとする動きが各方面に出ているように感じる。
 しかし、<新しい>ということは現在における「状態」を指しているだけで、その存在の「属性」として備わっているものではない。
 それでもそこに共通となるものが存在しているとするならば、そこから生まれるものにも共通性を見いだせるかもしれない。
 混沌とした「過去」に対峙することで生まれる、それらのものに共通しているものとはなんだろうか。

 本書は不在性ということを記して終わる。
 その先にあるものがなんであるかは述べることが不可能であった。
 それからおおくの時間を経て、本書で書かれなかった「未来」はすでに「過去」のものとなった。それらに対し、個別に並べる以外のなにができるかを提示することこそ、これから求められていること、すなわち「解体」のあとにつづく建築なのかもしれない。

 本書にある「建築の解体」とは、そのあとにつづく、すなわちいまの建築について考える起点となるものとして避けることのできない地点なのである。


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