◆磯崎新 『建築の解体―一九六八年の建築情況』
 


モダンとポストモダン

モダンとは近代のことだ。ポストモダンとは、「近代(モダン)のあと」という意味だ。一般的には、「機能的でシンプルなモダン」に対し、「個性的で混沌としたポストモダン」ということになる。「個性的」というのは、それぞれが異なる性質を持っているから個性的になるわけで、つまり「ポストモダン」をわかりやすく説明する単語はない。同じポストモダンのカテゴリー内にあっても、作品ごとにまったく違った印象を受けるのはそのせいだ。

近代建築では絢爛な装飾を廃し、機能面を充実させるという特徴がある。近代建築は古典主義的な様式美と比較すると、シンプルな印象となる。ポストモダン建築では統一された印象はなく、それぞれの建築作品はどれも個性的だ。それらをまとめても、「モダンのあと」という名称をつけるしかない。

「解体」とはどういうことか

磯崎新が『建築の解体』で使用する「解体」とは、「モダンの解体」のことだ。これはそのままポストモダンについて語ることになる。ポストモダンが個性的で多様である以上、「解体」を語るのもそれぞれ個別のケースを列挙していくしかない。

本書ではポストモダンの代表的な建築家、建築グループである「ハンス・ホライン」「アーキグラム」「チャールス・ムーア」「セドリック・プライス」「クリストファー・アレグザンダー」「ロバート・ヴェンチューリ」「スーパースタジオ/アーキズーム」を題材にしている。

各題材ともに豊富な資料をもとにして建築家たちの活動が詳細に述べられている。それは著者の磯崎自身がポストモダンを代表する建築家であり、彼らの近くで活動していたからできたことだ。資料は、その対象となった建築家たちから直接借りたものが多く使われているという。

ヴェンチューリの代表作、『母の家』
(http://storiesofhouses.blogspot.jpより)

各題材は、その情報量の多さに圧倒されるがとくべつ難解な内容ではない。「解体」とは、それまでなかったやりかたで建築をとらえなおし、作品を発表していることを意味している。その方法は同じものではなく、それぞれ異なるやりかたでおこなわれている。

かつてはある時代の「建築」を語ることが可能だった。それがポストモダン的な状況においては不可能になった。できることは、ひとつひとつの建築作品を個別に語るしかない。しかも、それぞれの共通項を探すようなやりかたではなく、それぞれの個別性を明確にしていくようなやりかたで。

「不在」が存在するということ

この本のなかで磯崎は、各建築家の活動を個別に述べたたあとに、「《建築の解体》症候群」としてまとめている。
ここで磯崎は、aではじまる五つのキーワードを設けている。
apathy、alien、ad hoc、ambiguity、absence

この五つのキーワードは「解体」に共通するものだと磯崎は考え、それぞれに建築家たちの作品と言葉を引用する。
そして最後の「absence(不在性)」についてはそれがまさに存在しないことを述べて終わる。

「不在」というとき、存在しないものは何なのだろうか。それは「主題の不在」であると磯崎はいう。主題の不在とは現代建築がいやおうなしにひきずりこまれてしまった地点だと磯崎はいう。主題のない「建築」はそれ以上「解体」することは不可能だ。

解体するものがなくなったときに

「建築」を「解体」していけば、やがては「解体」するものがなくなる。これは建築に限ったことではない。ポストモダン以降の状況を説明し難くしている原因がここにある。かつてあったものを「解体」していくことにポストモダンたる所以があった。その後「解体」されたあとになにかを「構築」あるいは[建築」することができただろうか。

つねに新しいものを求め、古くなることを避けようとすれば、誰にも似ていないものを作りつづけるしかない。自分自身の過去の作品からも自由に「新しい」ものをつくる必要がある。そのため斬新であることや奇抜であることに価値が見出されるような状況が続いてきた。しかし「新しい」ということは現在における状態を指しているだけで、その存在の属性として備わっているものではない。いまあるそれぞれの「新しい」は、時間の経過によって必ず「過去」になってしまう。

ポストモダンに対し個別に並べる以外の何かができるだろうか。それを明らかにすることが「解体」のあとにつづく建築なのかもしれない。『建築の解体』はそのあと(ポスト)に続いていく、現在の建築について考えはじめる地点として、避けることのできない地点なのだ。

【関連】
・磯崎新 『磯崎新の建築談義#02 アクロポリス[ギリシア時代]』


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