◆レイナー・バンハム
『環境としての建築』

環境とは五感で感じるもの

ここでいう「環境」とは環境破壊などで取りざたされる、いわゆる自然環境のことではない。建築の内部における換気や温度や湿度や明るさなどの生活環境を総合的に「環境」とよんでいる。建築において換気、空気の流れをどのように意識し制御しようとしてきたか、あるいは寒さや暑さに対してどのような対策を講じてきたかなどについて書かれている。

レイナー・バンハムは本書で、ジークフリード・ギーディオンの『機械化の文化史』を厳しく批判している。しかし本書を読むと建築に対するアプローチとして、『機械化の文化史』の影響が大きかったのではないかという気がする。

バンハムは彼の代表的な著書である『第一機械時代の理論とデザイン』でも、ギーディオンの『空間 時間 建築』に対抗するような姿勢を見せていた。
『第一機械時代の理論とデザイン』も『空間 時間 建築』も、ともに近代建築史を扱った本だ。ギーディオンがコルビュジエを中心とした合理主義的な側面を強調し、表現主義などそれ以外の建築の潮流をほとんど書かなかったのに対し、バンハムはギーディオンが無視あるいは低く評価した表現主義を「創造的である」と高く評価している。

アインシュタイン塔(http://ja.wikipedia.org/より)

アインシュタイン塔(http://ja.wikipedia.org/より)

ギーディオンの『機械化の文化史』でも、バンハムの『環境としての建築』でも、人間の生活がどのように変化していったかについて書かれている。しかし『機械化の文化史』で扱った対象ほどは『環境としての建築』で扱う対象は広くはない。本書で扱うのは基本的に人間の五感に関係してくるもののみであり、それはおもに温度と湿度、明るさといったことになる。それらは総じて天候との関連で生じる事柄に終始している。

フランク・ロイド・ライトにおける環境

バンハムはとくに、フランク・ロイド・ライトのプレーリー時代の作品における、環境への対応を高く評価している。これは図面だけで建築作品を評価しようとするときに見落としがちな、その土地の気候を考慮した重要な指摘だ。
ライトはその空間造形のセンスが高く評価される建築家である。部屋の仕切りを曖昧にし、広々としたリビングを提案した。それだけではなく本書を読むとライトは採光と通気に配慮した設計をしていたことがわかる。

プレイリースタイルの代表作 ロビー邸 (http://ja.wikipedia.org/より)

プレイリースタイルの代表作 ロビー邸
(http://ja.wikipedia.org/より)

部屋の三面の壁から採光できるように窓を設置している。それを複数の部屋で可能なように設計しているのだ。単純に正方形の空間をたてよこに二分割して四部屋つくった場合、ひと部屋につき二面の壁にしか窓を設置できない。ライトは十字架型の空間を設けて、三面から採光可能な部屋を複数つくるというような工夫をしている。

ル・コルビュジエにおける環境

ル・コルビュジエについてはバンハムは批判的に評している。とくに1920年代のコルビュジエの建築には環境に対する配備が不十分であるとする。しかしそれはコルビュジエが環境について関心がなかったからではない。
バンハムは、コルビュジエの『建築をめざして』からの引用をし、すでに環境についての十分な認識があったことを示している。
コルビュジエの以下のように書いている。
「できれば臭いを避けるため台所は家の最上階に置きなさい。しっくい塗や壁紙の代りに、間接照明または拡散照明をつけるよう家主に要求しなさい・・・・・・
真空掃除機を要求しなさい。どの部屋の窓にも換気用開口を要求しなさい」

Stein-de-Monzie (http://www.archilovers.com)

Stein-de-Monzie
(http://www.archilovers.com)

しかし、コルビュジエの1920年代の作品はこれらの内容を満たすものではなかったとバンハムは言う。
間接照明を推奨しながら、自身の建築作品では、壁、天井のシンプルさゆえに、むき出しの照明を取り付けるしかなかった。環境に対して向けられるべき注意は現在ほど大きくはなく、たとえば南向きの窓から差し込む強い日差しがもつ殺人的な暑さなども考慮されることはなかった。
当時のコルビュジエにとって重要だったのは、もっとも薄い壁となり得る”ガラス”をいかに利用するかであり、それを室内の温度管理にも使おうとした。たとえばガラスを二重にし、その間の空気の温度を調整することで快適に過ごせるとした。

バンハムはコルビュジエの建築を例に挙げるが、コルビュジエだけが特別に環境として悪かったわけではない。実際は当時の建築家は大なり小なり似たようなものだった。空調や冷暖房の機器へ予算をまわすことは二の次とされた時代だったのだ。

環境への配慮を建築に取り入れるか

バンハムは利用者の受ける環境を建築がどこまで配慮してきたかを語る。そこでは当然のことながら科学技術の進歩に関わる部分が大きくなる。そのこと自体は建築家の仕事ではない。建築家は建築の設計をおこなうのが仕事であり、湿度調整機器の開発が仕事ではないからだ。
しかしその当時の技術で可能になる部分をどこまで取り入れ、どのように建築に組み込むかの判断を建築家は迫られることになる。その技術を取り入れることでダクトなどの外部からの要素を整理しなければならない。それをどのように建築に落とし込むかということも含めて建築家の力量であるともいえる。
たとえば、ルイス・カーンは空気調整用の開口が外観の正面から見えるの嫌い、設計でそれを解消する。換気装置をつけないという選択肢は現実的ではない。今後もこういった新しい技術を取り入れていくという作業は増加していくだろう。

ルイス・カーン設計 リチャーズ医学研究所 (http://eng.archinform.netより)

ルイス・カーン設計 リチャーズ医学研究所
(http://eng.archinform.netより)

さりげない取り入れかた

バンハムは最後の章で、次のように書く。
「これまでの章のなかで素描してきた前例のない歴史は、二通りに要約できる。構造という底荷からの建築の最終的な解放として、または機械的設備という突き上げに対する全面的な屈従としてである。」

つまり建築家は構造だけを考えていれば良いという時代は終わった。生活に必要な機械設置を含めてデザインしなければならない、ということだ。
しかしこのような考え方は「芸術の機械的な部分と文化的な部分とは、本質的に対立するものだという考え」る、幼い解釈に過ぎないとバンハムは指摘する。美しくてかつ生活しやすい空間を作ることも可能なはずだ。

さらに、建築家が「大人になり」成功したしるしといえるのは、「進歩した科学を応用することから象徴的価値や文化的演出を引き出す試みを、放棄した」ときだ、とも語る。
最新の技術、設備、そういったものを建築に取り入れたことをことさら強調しない、それこそが成熟した建築家だ。真に成熟した建築家とは科学技術をごく自然に取り入れる。そのことで建築作品自体の完成度は良くも悪くも何ら影響を受けることはない。決して特別なこととは感じさせず、しかしその建築作品は取り入れた科学技術によって利用者に快適なものとなる。

建築にとって重要なこと

建築は外観や図面を含め、視覚的な面から評価を下されがちだ。しかし重要なのはそれが建築物である以上、見た目だけではなくそれを利用する者がどのように感じるかだ。外観がどれだけ美しく、内部の空間がどれだけ効率的で斬新であっても、結局は利用者が不快になる建築は優れた建築とはいえない。
利便性を高め、空間に意味を持たせ、建築作品の価値を上げることは重要なことだが、そこで過ごす時間に影響をあたえる環境について考慮することも忘れてはならない。建築についての知識を得るだけならば建築作品の見学や書籍でも可能だろう。しかしそこで得た情報には実際の利用者の視点が欠けている。

暑さや寒さもいっときであれば我慢することはできる。しかし一日を、あるいは一年をそこで過ごすとなったらどうだろうか。建築をそのような観点から見るとこれまでとは違った見方が可能になる。本書に書かれた内容は建築が何のために存在しているのか、そのことの重要性に気づかせてくれる。

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『環境としての建築』