◆ルイス・カーン 『建築家の講義』

ルイス・カーン 建築家の講義

『建築家の講義』シリーズの一冊。建築家のルイス・カーンが1968年の春にライス大学建築学科の学生たちに向って話したものが元になっている。

ルイス・カーンは1901年ロシア生まれ。幼い頃にアメリカに移住している。大学で建築を学び、いくつかの建築事務所勤務を経て独立。1950年代から大型の建築物を設計している。代表作として、イェール大学アートギャラリーやソーク研究所がある。

ソーク研究所(wikipedia.orgより)

本書の内容は、『ルイス・カーン建築論集』の第七章「ライス大学講義」でもまとめられている。この講義の内容は、詩のような体裁で書かれている。それは、カーンの語る言葉がまさに詩のようであり、それを通常の文章に変換することなく文字にしているためだ。さらに講義後に学生からの質問に、カーンが答える部分も納められている。

建築のはじまり、自然にはできないこと

建築のはじまりにはまず壁があり、壁に入り口がつくられ、それは柱へとなる。
人間を災難から守るために「壁」が生まれ、やがて外が見たいという願いから壁に穴をあけ、開口部ができ、やがて柱が生み出された。

カーンは芸術について語るとき、自然がつくりだすものとの違いに注目する。
「このような生成は自然から生まれることは決してありません。/それは、神秘的な感覚の内から生まれ出ます。/すなわち人は、魂の驚異を表現せずにはいられないものであり/それが表現を求めるのです」

生きることは表現することだとカーンは言う。
「生きることの理由は表現すること……憎しみを表現し、/愛を表現し……、統合と能力を表現する……、/すべて形のないものです。」

そして表現することとは「選ぶ」ことだ。
「自然は、このように選ぶことはできません……/それは、ただその法則を展開するだけで、/すべては、偶然の働きによってデザインされるのですが、/人間は、そうではなく、選び取るのです。/芸術とは、まさにこの選び取りであり/人間の行うことのすべては、芸術の内において行われるのです。」

Louis Kahn
(https://en.wikipedia.org)

建築家が選ぶべきもの

建築家は建築についての専門性を持たなければならない。建物をつくるとき、その建物は、つかう人間の制度に役立つものでなければならない。あらゆる建物には目的がある。
「建築家のなし得る最大の貢献は、/一人の専門家として、/すべての建物が人間の制度のひとつに奉仕していることを感じ取ることでしょう。」

人間の制度、それを空間へ変えることが建築家の仕事だ。そのためには本質をとらえなければならない。
「私は、まさに、何ものかの本質を求めているのです。」
単にデザインすることではない、また単に建物を建てることではない、本質をとらえることが重要だとカーンは言う。

「本質は、触発することのうちのあり、そして霊感を与えるものは、強引に言うなら、表現にあります。願望を表現するとは、あなたの信じる何ものかを、あなたが告白することを恐れない何ものかを表現することだ、と私は言いたい。」

建築教育の三つの論点

カーンは建築教育に必要な三つの論点を上げている。

一つ目は「専門」。
建築の専門家として学ぶべきことは多い。カーンは、あらゆる関係について、学ばねばならないと話す。制度との関係、人々との関係、科学と技術の違い、美の規則について学ぶ必要がある。
「依頼主の企画プログラムを、空間のプログラムへ/すなわちその建物が奉仕すべき制度の空間へと解釈し直さなければならない。」
そのためには、それが空間秩序の問題か、人間活動の空間領域の問題か、それらを見分けるのが専門家の責任だという。
これは建築を設計するときに基本的な姿勢だ。しかしこれだけでは不十分だ。カーンは「科学は、すでにそこにあるものを見出しますが、芸術は、まだそこにないものをつくり出します。」と述べている。専門性を高めるだけでなく、表現することが重要なのだ。

二つ目の論点、「自己を表現する」。
カーンは繰り返し、自然と人間は違うと語る。もっとも違う部分は人間が「選択できる」という点だ。
「自己を表現することは、人間の特権です。」
「画家は、人を上下逆さまに描くことができます。」
画家は、入口を人より小さくすることもできるが、建築家は入口を人より大きくつくらねばならない。しかし、建築家独自の権利もある。これを学び、理解することで、自然がつくり得ないものをつくることができる。単なる物理的な正当性ではなく、心理的な正当性もつくりだすことができる、とカーンは話す。
「なぜなら人は、自然と違って、選ぶことができるからです。」
つまり、建築家は画家と違って物理的な制約を受けながら作品をつくる。しかし、その建物が真に人間の制度に奉仕するものであるならば、心理的にも優れた効果をもたらす。それは自然にもできない、建築家独自の権利なのだ。

キンベル美術館
(https://ja.wikipedia.org)

三つ目の論点は、「建築とは、現実に存在しているものではない」ということだ。
「存在しているのは、建築のある作品です。/建築とは心の中にのみ存在しているのです。/建築のひとつの作品をつくるとは、/建築の精神へのひとつの捧げものとしてつくる、ということです……。」
建築とは既にある建物のことではない。建築という目には見えないものがあり、建物を建てる、建築の作品をつくる、それは建築の一部となることだとカーンは言う。

建築は最大の力である

「建築は存在しない、と告げているのが建築の精神です……」とカーンは言う。
精神は、様式をもたず、方法ももたない。それは何ものにもなり得る。

「ひとりの建築家は、建築の宝庫の一部分であり、その宝庫にパルテノンは属し、そのパルテノンが属するところに、ルネサンスの偉大なる活動も属している。これらすべてが、建築に属しており、それを豊かなものにする。」

建物をつくるということは人間の有史以来続けてこられた営みであり、自然にはできないことだ。これらの全てが建築という宝庫に含まれている。カーンは言う、「建築は、人々が持っている最大の力である」と。

【関連】
ルイス・カーン 『ルイス・カーン建築論集』
ミース・ファン・デル・ローエ 『建築家の講義』

Comments:
  • […] 受け継がれてきた形式を生かし、変化を受け入れ、釣合いを意識してデザインする。そして”釣合いとは何か”というとき、それは-部分と全体とのあいだのすぐれた関係、すなわち均整にほかならない、とタウトはまとめる。これは目新しい結論ではないかもしれない。前述のように、アルベルティやカーンやヴェンチューリと同じ結論だ。 […]

    4月 11, 2019 — 22:15