◆アーウィン・パノフスキー 『ゴシック建築とスコラ学』
 

ゴシック建築とスコラ学のはじまり

原著は1951年、アーウィン・パノフスキーによって書かれた。
ゴシック建築とスコラ学の共通する部分について書かれた本だが、読み解くにはこの二つの分野についてある程度の知識を必要とする。
ゴシック建築は11世紀頃にはじまった建築様式だ。ロマネスク建築の後、ルネサンスの前まで続く。スコラ学も同時期にはじまった神学と哲学の潮流だ。確かに二つはおおよそ同じ時期にはじまっている。

パノフスキーは次のように書いている。
「ランフランクスとベックのアンセルムスは理性と信仰との軋轢を解決しようとする英雄的な努力を試みたが、それはこのような軋轢を解決する諸原理が探求されて定式化されるよりも以前のことであった。この探求と定式化はジルベール・ド・ラ・ポレとアベラルドゥスによって開始された。このように初期ゴシック建築がスゲリウスのサン=ドニで誕生したのと同じ瞬間と同じ環境において、初期スコラ学が誕生したのである。」

この短い文章のなかに固有名詞がいくつか出てくる。
まず、「ランフランクス」と「ベックのアンセルムス」とは、ともにスコラ学がはじまる前のカンタベリー大主教だ。カンタベリー大主教とはイギリス国教会の最上位の聖職者。当時のヨーロッパの知識人は基本的に神学を学ぶ修道士や司教などの神学者であり、哲学者とはキリスト教以外のアリストテレスやプラトンなどの異教徒のことを指していた。

アンセルムス
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ランフランクスは論理学と教義神学を、アンセルムスは理性によって神を把握しようとした。アンセルムス以前は信仰について理性や学術を用いることはいなかった。アンセルムスが初めて神を「理解」しようと試み、スコラ学の父と呼ばれている。

次の、「ジルベール・ド・ラ・ポレとアベラルドゥス」は、ともに11世紀の神学者だ。ジルベール・ド・ラ・ポレはシャルトル学派と呼ばれる学派に属し、三位一体論で知られる。アベラルドゥスは普遍論争と呼ばれる論争で唯名論を唱えたことで有名だ。
普遍論争とは、普遍的な概念が個々の存在よりも先立って存在するのか、それとも個々の存在が先にあり、それを説明するための名目として存在するのかを争ったもの。前者を実在論、後者を唯名論という。

ペトルス・アベラルドゥス
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ジルベール・ド・ラ・ポレもアベラルドゥスも、二人とも初期のスコラ学に属し、信仰のみで全てを説明していた時代から、理性を用いて理解しはじめようとする時代への変わり目に活躍した人物だ。

スコラ学では、二人よりも後に出てくるトマス・アクィナスが最も有名な神学者だ。トマス・アクィナスはキリスト教とアリストテレスの哲学を融合した『神学大全』という大著を残した。パノフスキーが言う「理性と信仰との軋轢を解決する諸原理が探求されて定式化される」とはトマス・アクィナスのことを指していると考えてよいだろう。

先のパノフスキーの文に出てくる、「スゲリウス」というのは「シュジェール」や「シュジェ」とも呼ばれる、サン=ドニ修道院長であり、サン=ドニ大聖堂を現在のゴシック構造にした人物でもある。サン=ドニ大聖堂は初期ゴシックの代表的な建築物だが、最初に建てられたのはこのゴシックの時代よりも数百年も前、7世紀頃だと見られる。

サン=ドニ大聖堂
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要するに、先のパノフスキーの短い文では、初期スコラ学と初期ゴシックが同じ時期にはじまったと言っているのだ。内容そのものは難解ではないのだが、パノフスキーの文章は固有名詞が頻発するので予備知識がないと理解が困難だ。本書には各章に注釈が多数用意されている。

初期から盛期、さらに後期へ

様々な神学者、宗教家、政治家の名前が挙げられ、初期スコラ学、ゴシック建築が語られ、そのあと盛期へと続く。
「盛期スコラ学は十二世紀の変わり目に始まったと一般に考えられているが、それはまさしくちょうど、盛期ゴシックの体系がシャルトルとソワソンにおいて最初の大成功をなしとげたその時のことである。そしてまた、「古典的な」すなわちクライマックスの局面に到達したのは、両分野とも聖王ルイの治世の間のことである。」

「シャルトル」とはシャルトル大聖堂のことで、「ソワソン」とはフランスのシャンパーニュ地方にあるソワソン大聖堂のことだ。
「聖王ルイ」とはフランス王国カペー朝ルイ9世のことで、このルイ9世はキリスト教にとって重要な聖遺物を各地から買い取り、それを納める建物としてシャルトル大聖堂の建築を命じた。

シャルトル大聖堂
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このシャルトル大聖堂建築に関わったのが、ピエール・ド・モントルイユという人物だと考えられている。ピエール・ド・モントルイユは他にサン=ドニ大聖堂のアプスを再建し、さらにパリのノートルダム大聖堂のファサード、サン=ジェルマン=デプレ修道院の礼拝堂を建築した。アプスとはキリスト教建築で最も重要な部分で、入り口から最も奥に進んだ場所に位置している。ファサードは建物の正面のこと。礼拝堂は教会建築でまずはじめに作られる重要な部分。つまり、ピエール・ド・モントルイユは大聖堂など主要な大型建築物の重要な部分を続けて建てた人物であり、この時期をパノフスキーは「クライマックスの局面」と書いているのだ。

ノートルダム大聖堂 (パリ)
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さらにパノフスキーは後期について、次のように書いている。
「一二七〇年の聖王ルイの死後五〇年ないし六〇年は哲学史家によって盛期スコラ学の終局面とよばれるものを、そして芸術史家によって盛期ゴシックの終局面とよばれるものを印づけている。」
西暦1320年から1330年あたりが盛期の終わり、後期へのはじまりと見ている。この頃のスコラ学では後期スコラ学を代表するオッカムのウィリアムがおり、ゴシック建築ではヨーロッパ各地にあるノートルダム大聖堂も主だったものは建てられている。
この時期の建築は百年戦争とペストの流行ですでに停滞していた。たしかに最も勢いのあった時代はともに終わっていたと言える。

オッカムのウィリアム
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パノフスキーは、ゴシック建築とスコラ学は、その初期・盛期・後期がまさに時期的に一致していると言っている。

時代だけではない共通点

ゴシック建築とスコラ学は同じ時代に同じ広がりかたをしただけではない。

スコラ学は「スンマ(大全)」と呼ばれる書物で神学をまとめた。大量の文章を体系的にまとめるために、章、部、区分、項というように細分化し論理的に構築した。同様に、ゴシック建築ではどうだったか、パノフスキーは次のように書く。
「盛期スコラ学の<大全>と同様に、盛期ゴシックの大聖堂は何よりも「全体性(トータリティ)」を目指し、それゆえ、削除と綜合によって一つの最終的な解決に近づいていった。」

トマス・アクィナス
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ゴシック建築の特徴としては全体の統一性が挙げられる。ゴシック以前のロマネスク建築が各部分の組み合わせで構成され、それぞれの各部がはっきりと分されているが、ゴシック建築では全体が秩序づけられている。

またパノフスキーは次のようにも書いている。
「しかしながら、盛期スコラ学は信仰という聖域と合理的知識の領域との間をきびしく限ったが、しかしこの聖域の内容は明瞭に識別できることを主張した。」
「同様に、盛期ゴシック建築も堂内のヴォリュームを外部の空間から限ったが、しかしいわばそれがとり巻く構造体を通して自らを投射するのだと主張した。だから、たとえば身廊の横断面を正面から読みとりうるのである。」

スコラ学では信仰や神について理性を用いて理解しようという試みがなされた。しかし、信仰や神そのものに疑義を挟むことは許されなかった。そのような行為は「異端」と見なされ、教会から破門されることになる。
前述の唯名論のアベラルドゥスも、ソワソン公会議とサンス公会議で二度、異端宣告されている。唯名論は「普遍」は実在せず名目だけのものという立場をとる。突き詰めていけば、教会や神という概念を否定する思想に繋がる恐れがあるからだ。
他にも後期スコラ学の中心的人物である、オッカムのウィリアムも唯名論を主張したことで、ローマ教皇から異端として破門宣告を受けている。
パノフスキーが言うように当時のキリスト教世界では信仰は「聖域」だった。

大聖堂の「身廊」とは入り口から主祭壇につづく中央通路のことだが、正面からみたときに円形のバラ窓などからその幅をイメージすることは容易にできる。最も重要なエリアは明瞭にしているという点で共通しているとパノフスキーは指摘する。

権威に対する姿勢という共通点

ゴシック建築とスコラ学には、同じ時代に同じような変遷を持ち、各部が集合し大部のものとなったという共通点がある。

また別の切り口として、パノフスキーは次のように書いている。
「盛期ゴシック大聖堂の建設者たちにも、盛期スコラ学者の態度に似た態度が前提とされなければならない。過去の大建造物はこれらの建築家たちに対して、ちょうど教父たちが学者たちに対してもつのと全く同じような<権威>をもっていた。」

つまり、スコラ学にもゴシック建築にも、ともに先に存在する権威によって認められたものが複数あり、それらが互いに矛盾していたとしても、後の時代の者は巧みに融合させなければならなかった。建築で言えば、初期と盛期のゴシック建築の方向が定まっていない、しかし強情なほど首尾一貫した展開を求められたと、パノフスキーは述べている。

ランス・ノートルダム大聖堂
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宗教という信仰するものと、論理や理性で理解しようという、相容れないものを結びつけて体系化する難しさがスコラ学にはあった。つまり神学と哲学の統合なのだが、哲学のなかにも神秘的なプラトン教義と体系的なアリストテレスの思想があり、それらを用いて論理的に矛盾しない解答を導き出す必要があった。根拠とするのは聖書をはじめ、古代からの公会議文書、命題集、教皇書簡などの権威あるテキストたちであり、当然のことながらそれらのテキストの権威に従うかたちになる。さらにその上でキリスト教から異端と見なされないために、教会歴代の上位聖職者や教父を否定することなく、統合を図らなくてはならなかった。

当時のヨーロッパでは国をまたいでキリスト教修道院の会派があった。有名なものにベネディクト会、シトー会、フランシスコ会、ドミニコ会などがある。
ベネディクト会は6世紀頃にベネディクトゥスという修道士がイタリアではじめた。その後、イギリス、ドイツ、デンマーク、スペインまで範囲を広げた。シトー会は11世紀にフランスのシトー修道院ではじまった。ドミニコ会とフランシスコ会は13世紀に新たにできた修道会で、ドミニコ会にはトマス・アクィナス、フランシスコ会にはオッカムのウィリアムがいた。ドミニコ会は大都市に修道院がつくられることの多く、フランシスコ会は小都市に設立されることが多かった。

アミアン大聖堂
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このような会派が各国の都市に修道院を持ち、その中のひとつがゴシック建築を代表するような建築物になった。たとえばサン=ドニ大聖堂はベネディクト派の修道院、サン=ドニ修道院が元になっている。各会派で修道士の異動も多数あった。修道士の異動に合わせて建築技術も伝播していったと言われている。
サン=ドニ大聖堂のあと、これに倣うように、ラン大聖堂、パリのノートルダム大聖堂、シャルトル大聖堂、ランス大聖堂、アミアン大聖堂などが建てられていく。

ラン大聖堂
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大聖堂は長い歴史のなかで火災にあったり、戦争や革命で破壊されたり、それを修復、改修するなど、いくつもの変化を遂げているのが普通だ。そのため世界遺産に登録されているものでも、「誰の作品」とはっきりと言えないものが多い。またゴシック時代に作られた部分が、その後の大改修などで残っていない建築物も多数ある。
ゴシック建築は、ロマネスクやルネサンス、バロックなどと比較しても際立った特色がなく定義づけが難しい。とにかくトータルとしてうまくまとまっているという点が特徴と言える。それららは修道士たちが異動しながら技術交流をし、過去の建築への敬意を強く抱き、大きな変化を望まなかったからかもしれない。

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