◆石山修武、毛綱毅曠 『異形建築巡礼』

異形の建築

 本書は1972年から75年、雑誌『建築』に連載した「異形の建築」をまとめたもの。全部で8章からなり、各章で「異形」の建築を挙げながら、それについて二人がそれぞれ書くという形式。

 最初の章では『「異形」の再発見とその正統性--日本近代建築の見直しへの一石』という章題のもと、毛綱はラ・パボーニについて、石山は伴野一六邸について書いている。

 ラ・パボーニは兵庫県の夙川にあった喫茶店で、オーナーの大石輝一なる人物が建てた建物だ。元々洋画家志望だった大石には画家仲間も多く、喫茶ラ・パボーニは画家や小説家が集まるサロンのような場所になった。この建物は1930年代に建てられ、その後も大石が増築を重ね、唯一無二の独特な建物となっていった。しかし1995年の阪神淡路大震災で全壊してしまい、現存しない。

 石山が書く、伴野一六邸とは、こちらも本職の建築家ではない人物による作品だ。海岸沿いで拾った廃材などで建てられており、一見して「異形」の名にふさわしいものであることがわかる。何が流れ着くかわからない漂流物を材料としているため、計画的に建てることは不可能だ。設計図面をもとに建てられる既存の建築とは全く異なる様相となっている。

アウトサイダーによる建築

 美術の分野でアウトサイダーアートと呼ばれるものがある。これは絵画技法などの専門的な教育を受けていない、あるいは訓練を経ずに描かれたアートのことで、伝統的な西洋美術の枠外に置かれる。なかには先天的な知的障害や精神疾患などを患ったものによる独特な作品もある。建築でいえば、本書でも度々言及される、シュヴァルの理想宮やワッツ・タワーもここに含めることができるだろう。

シュヴァルの理想宮
(https://fr.wikipedia.org)

 シュヴァルの理想宮はフランスの郵便配達夫であるフェルディナン・シュヴァルが、仕事の行き帰りに拾った石を積み上げてつくった「宮殿」だ。シュヴァルは建築に関する専門的な教育を一切受けていない。彼は33年という年月をかけて、石をセメントで固定しながら巨大な建築をつくった。
 ワッツ・タワーはロサンゼルスにある、やはり建築の素人であるサイモン・ロディアによって建てられた巨大な塔だ。塔はセメントで固めた鉄筋でできており、拾ったジュースのビンやタイルの破片で装飾されている。塔の数は14本にも及び、最も高いものでは30mに達する。

 日本国内の建築でいえば沢田マンションがある。こちらも建築の素人である沢田嘉農が独自に建設した建物だ。建てた後にも増築を重ね、「違法建築」などと揶揄されながらも、フランク・ゲイリーのようなアヴァンギャルドな作品に仕上がっている。 
 また他に岩窟ホテルもある。こちらは明治時代に農夫である高橋峰吉によって手作業で掘られたものだ。ツルハシで岩を掘って建物をつくるという途方もないもので、21年間に渡って作業が進められたが、結局建設半ばで高橋峰吉は他界している。その後も息子によって作業は引き継がれたが完成されることはなかった。

沢田マンション
(https://ja.wikipedia.org)

 このような「異形」建築は、建築が設計図面によって計画的につくられるようになったことで生まれたともいえる。一般的な住宅などの建築が規格化されたことで、伴野一六邸に見られるような荒々しい「異形」さが際立つのだ。

中世の日本建築における異形

 日本建築史においても過去に「異形」な建築は存在した。日本の中世の建築といえば主に寺社建築になるが、それらにもある種の規格が存在している。そこから外れた「異形」の建築物たちが本書では多数取り上げられている。

 第2章では石山、毛綱ともに栄螺堂について書いている。栄螺堂は全国に複数存在する仏堂だ。建物内は螺旋構造になっており、階段やスロープで上部に登っていく。最上部まで来ると、そのまま順路で下るかたちになっており、下るときは別のスロープで螺旋状に降りていくという特殊な様式をとる。どのような仕組みになっているのか想像するだけで混乱してくる建築だ。

栄螺堂
(https://ja.wikipedia.org)

 つづく第3章では崖の中に建てられた投入堂や、大岩の上に60本以上の長い柱で持ち上げられた笠森寺、洞窟の中に建てられた大谷寺などが取り上げられている。これらはなぜこのような場所に建てられたのか、またどのような理由でこのような形にされたのかがよくわかっていない建築物たちだ。

投入堂
(https://ja.wikipedia.org/)


大谷寺
(https://ja.wikipedia.org)

 特殊な地形に合わせた「異形」な建築だけではなく、妙立寺や二条陣屋という構造上に特異な性質をもつ建築についても書かれている。これらは忍者寺、忍者屋敷と呼ばれ、外敵を欺くためのカラクリが多数設けられている。

 さらに瑜伽洞という、建物というよりも洞窟なのだが、これも「異形」として取り上げれられてる。瑜伽洞は神奈川県にある人工洞窟で、つくられたのは古墳時代とも言われているがよくわかっていない。鎌倉時代に密教の修行場として開かれた。途中、洞窟はさびれ閉じられたこともあり資料が残っていない。現在では指定文化財となっている。
 洞窟内は複数の広い部屋を繋ぐように通路が設けられている。巨大な迷路のような構造になっていると考えられるが、横道は現在立ち入り禁止となっている。そして通路や空間内部の壁や天井には多数の彫刻がある。

 江戸時代に関東では四国のお遍路を模したかたちの、「礼所巡り」なる巡礼が盛んにおこなわれた。これは関東近県の観音霊場を巡るもので、坂東三十三箇所、西国三十三所、秩父三十四箇所が有名だ。瑜伽洞にはこれら関東の百観音と四国八十八箇所の壁画が彫られており、洞窟内を回ることで全て巡礼したことになるという。

異形が問いかける“建築とは何か”

 歴史上に残る過去の「異形」建築には宗教的な起因によるものが少なくない。あえて危険な場所に建てるのはそこに至るまでの道のりを修行と捉えるからだろう。複雑な構造にすることや特殊な環境を用意するのは日常とは異なる宗教空間の演出という意味合いがあるのかもしれない。

 近代以降の「異形」には宗教から離れたところに、「普通」とは異なる理由が存在する。それは、疾患も含めた「精神的な特殊」さを伴うことが多々あるといえる。
 シュヴァルやロディアは明らかに「普通」の感覚の持ち主ではない。またひとりで基礎工事から高層建築物を建ててしまう沢田マンションの沢田嘉農や、手作業で建物をつくろうとする岩窟ホテルの高橋峰吉も「普通」ではない。彼らのもつある種の特殊さが、建築の枠を超えた「異形」さをもたらした。石山は次のように書いている。

「たとえば“建築とは何か”という問いかけは、なぜすでに不毛で白々しい問いでしかありえないのか。それは当り前のことだが、“建築とは何々である”という方式も素朴な答えも成立し得ないことを余りにも多くの人間が知っているからだ。」

 「建築の枠」、すなわち定義を拒んだのが「異形建築」の制作者たちだ。彼らは建築とはこうあるべき、という概念とは無縁だたった。「異形建築」の制作者たちは「建築の枠」を学ばないことで、結果的にその枠外のものをつくった。しかし、そのような建築をつくることは、専門的な教育を「受けていない」ことや、建築の「素人である」ことが条件ではない。本職の建築家のなかにも「異形」が存在する。それは本書の最終章を読むことで理解できる。

異形建築家たち

 本書では石山の書き下ろしとして最終章に『異形の建築群(または建築の異形群)』がある。
 ここでは本職の建築家のなかに存在する「異形」について書かれている。具体的には安藤忠雄、渡辺豊和、毛綱毅曠、六角鬼丈についてだ。

 彼らは独特な個性を持った建築家としてスタートした。安藤忠雄の「住吉の長屋」はコンクリート打ち放しと雨の日には傘を差さないとトイレにも行けないという独特の建築で異彩を放った。渡辺豊和の「餓鬼の舎」、毛綱毅曠「反住器」、六角鬼丈の「クレヴァスの家」、いずれも「異形」と評してふさわしい建築だといえる。
 そして石山修武自身もまた「幻庵」で世に出てきた「異形建築家」のひとりだ。

 石山はこの章を書くにあたって、2015年に六角鬼丈の自邸である「クレヴァスの家」を訪れている。そこで見た、増築された六角邸についての詳細な記述もある。
 石山は「若い頃、六角鬼丈はわたくしよりも数歩先を歩いていた。本人は嫌がるだろうがスターであった。」と書いている。そして石山、毛綱、六角を含む当時の若い建築家たちでグループを作った。彼らは「当時華の中の華であった黒川紀章、菊池清訓のスター達に、背伸びしてでも立ち向ってやれ」という意気込みだったと石山は回想している。メタボリズムの後に続く世代に「異形」の建築家が同時多発的に出てきた理由の一端がここにあるように思える。

 自身もまた「異形」の建築家である石山が、同時代を生きた若き日の「異形建築家」について書いた最終章は本書の最も読み応えのある部分のひとつだ。またそれ以前の章、つまり1970年代に書かれた部分は、まだ駆け出しの建築家である二人が、過去の「異形建築を」どのように見ていたかがわかるという意味で興味深い部分だ。日本建築史の正史には載らないであろう「異形建築」を語る、未来の「異形建築家」の息吹を感じることができる一冊だ。


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