◆ジークフリード・ギーディオン 『空間 時間 建築』 2/2


本書の内容2 -立体派、未来派、表現派-

 ギーディオンの「近代建築史」はつづく。まずはパリにおける立体派という運動についての説明がある。絵画技法のキュービズムを含め、これらが空間の認識に影響を与えたという。立体派の作品は一枚の絵画のなかに複数の視点を持つ。空間は見るものの観点によって変わる。そのため本質を把握するためには、観察者はその中に自己を投入しなければならない、と語る。
 さらに未来派と呼ばれる運動ついても述べられる。立体派が空間の概念に関連したものであり、未来派は時間の概念に関連したものであると。これらはともに視覚の拡張である。

 ヴァルター・グロピウスとバウハウスに関しても詳細に語られる。ここでは当時のドイツがどのような状況であったかを説明するために表現派についても述べられている。
 表現派とは絵画や彫刻、音楽、文学なども含めた表現主義とよばれる潮流における建築の動向をあらわす名称だ。西洋の美術史では避けては通れない運動のひとつだ。しかしギーディオンは「表現派の影響は、建築に対していかなる貢献をもなしとげることができなかった。」と容赦がない。
 表現派の代表的な建築のひとつにエリッヒ・メンデルゾーンが設計したアインシュタイン塔という作品がある。その特徴は曲面を多様した、うねるような造形にある。一般的な建築史では表現派の説明とともに取り上げられる作品だが本書では名前を挙げることさえしない。おそらくそのアインシュタイン塔について述べていると思われる箇所で、「くらげのようなぐにゃぐにゃしたコンクリートの塔を建てたりしていた」と批判的に述べられる。

アインシュタイン塔(http://ja.wikipedia.org/より)

アインシュタイン塔(http://ja.wikipedia.org/より)

 「デザイン」を重視した表現派に対しては厳しい扱いだが、それとは対照的に「工業」と密接にリンクしていたバウハウスは肯定的に扱われる。バウハウスの関しては「建築を媒介として、芸術と工業、芸術と日常生活とを結びつけようとする努力が払われた」と。さらにグロピウスのアメリカでの活動や、教育者としての功績を紹介する。

本書の内容3 -ル・コルビュジエ-

 つづいてル・コルビュジエの頁がはじまる。まずコルビュジエと近代絵画との関係を述べたあとで、いわゆる「近代建築の五原則」について説明する。さらにその五原則を盛り込んだコルビュジエの代表作でもあるサヴォア邸の解説をおこなう。
 つづいて国際連盟設計競技について語られる。これは1927年に起きた、ジュネーブに建設予定の国際連盟本部庁舎の設計競技に関する「事件」についてである。設計競技とは設計案を募集し、そのなかでもっともすぐれた計画を選出し採用するというものだ。大きなプロジェクトでは有名無名の複数の建築家が設計案を競いあう。そこで選ばれ実際に建築物が完成すればそれが建築家にとっての業績となるのだ。
 1927年の国際連盟設計競技では応募案377点のなかで、コルビュジエと彼のいとこであるピエール・ジャンヌレによる計画案がもっとも好評であった。しかし審査委員のひとりが規定違反を理由にこれを退けた。規定違反とは提出図面がインクではなく青焼きのコピーであったという点だ。ギーディオンは「彼の案を拒否したのはフランスの政治的陰謀であった」と語る。これについては、本書のCIAM結成のところで詳述される。

コルビュジエ設計案の国際連盟ビル
(http://www.fondationlecorbusier.frより)

 コルビュジエについての考察はつづけられる。救世軍会館、スイス学生寮、ユニテ・ダビタシオンなどの代表作品の解説。さらにラ・トゥーレットのサント・マリー修道院についても詳細に解説する。

本書の内容4 -近代を代表する建築家たち-

 つぎにギーディオンはミース・ファン・デル・ローエについて述べる。ここでは田園住宅、ワイセンホーフ集団住宅地、イリノイ工科大学、さらに高層アパートや事務所建築など代表作を網羅している。さらにアルヴァ・アアルトについても述べられている。ギーディオンはとくにパイオミのサナトリウムに高い評価を与えている。
 ギーディオンは現代建築の興隆の中心的な作品として次のを三点をあげている。グロピウスによるデッサウのバウハウス、コルビュジエによるジュネーブの国際連盟本部庁舎案、そしてもうひとつが、アアルトのサナトリウムだ。
 最後に取り上げる建築家はヨーン・ウッツォンだ。ウッツォンはシドニーのオペラハウスが代表作の建築家であり、ここで中心的に語られるのもオペラハウスについてだ。執筆時点ではまだオペラハウスは完成していない。ウッツォンは1957年のオペラハウスの設計競技で1等賞を獲得している。本書の1941年の初版では当然、この部分は書かれてはいなく、増補改訂版で加筆された。

本書の内容5 -CIAMと国際連盟本部庁舎-

 近代建築を代表する建築家を論じた後で、再びCIAMについて語られる。ここで再び、先ほどのジュネーブの国際連盟本部庁舎設計競技の「事件」が出る。ギーディオンは次のように述べている。
「ル・コルビュジエは、その提案があらゆる点で他の公募案よりも優れていたので、公正の原則によって1等賞と判定されていた。パリのアカデミー・ド・ボーザール(芸術院)のある教授の陰謀術策によって、国際連盟で最も影響力のある政治家だったアリスティド・ブリアンはアカデミー様式の建物しか受容しないと宣言したのである。こうして1等賞はル・コルビュジエに与えられず、現代建築に対して障壁が下ろされた。」と。

 このようなことが繰り返されるのを防ぐために近代主義の建築家の連帯がはじまった。ギーディオンはCIAMにおいて、その発足から実質的な解散までの間、書記長を務めた。CIAMがそもそも発足したのは、コルビュジエが国際連盟本部庁舎の設計競技で負けたことに端を発している。それも作品の優劣で負けたわけではなく、権力者による妨害に近いかたちで負けた。この設計競技がおこなわれたのが1927年であり、CIAMの発足が翌年の1928年だ。

 現代では近代建築を代表するコルビュジエだが、1920年代はそんな彼でも設計競技に勝てない時代だった。というよりもギーディオンの言葉を借りるならば「ル・コルビュジエの生涯に流れている悲劇的な調べは、妨害の調べ」であった。
 妨害され、自分が提案したものを横取りされ、他人の成果として結実していくのを見ていなければならなかった。コルビュジエの身にどうしてこのようなことが起きたのか。それは先に引用したギーディオンの言葉のなかにあった「アカデミー・ド・ボーザール(芸術院)」や「アカデミー様式」といった単語を知ることで見えてくる。

フランスのアカデミズムのもつ絶対的な強さ

 フランスにはエコール・デ・ボザールという美術学校がある。この美術学校では、伝統的、古典主義的な作品が理想とされた。17世紀からの歴史を持ち、フランスにおける芸術の分野で絶対的な地位にあった。この美術学校はフランス学士院という国立学術団体をトップに、多数の団体から構成されるヒエラルキーのなかにあった。ジュネーブの国際連盟本部庁舎の設計を最終的におこなった、ポール=アンリ・ネノーはフランス学士院の会員であり、つまりアカデミーのヒエラルキーの頂点に立つ重鎮だ。

 コルビュジエの国際連盟本部庁舎案が賞に選ばれなかった経緯について、ギーディオンは「パリのアカデミー・ド・ボーザール(芸術院)のある教授の陰謀術策」と述べている。また彼のいう「アカデミー様式」とはエコール・デ・ボザールが重視する古典様式のことだ。

 ギーディオンをはじめとする近代建築家による運動であるCIAM、彼らが対抗していたのは、このボザール周辺を含むアカデミズムに他ならない。1930年代とはコルビュジエでさえもコンペで妨害を受けていた時代の名残があり、近代建築家たちは団結する必要があった。ギーディオンが近代建築についてのみを書き、古典主義建築についてはほとんど書いていないのはそのためだ。彼らは古典主義、アカデミズムと戦っていたのだ。

アカデミズムとの戦い

 ギーディオンは本書のなかでエコール・デ・ボザールについてわずかだが書いている。それは、アンリ・ラブルーストについて書かれた部分だ。ラブルーストはエコール・デ・ボザールで学び、そこで成績優秀者に与えられるローマ賞を受賞した。近代建築側からしてみると、ボザール・古典主義側の存在であり、言うなれば敵だ。ギーディオンは他のところでそうしたように、ラブルーストについても省略してもよかったはずだが、そうはしなかった。ギーディオンがあえてラブルーストについて書いたのには理由があった。
 それはラブルーストがアカデミー側の建築家でありながらもアカデミーの旧態依然としたあり方に疑問を呈したからだ。ギーディオンはラブルーストの手紙を引用する。
「エコール・ド・ボーザールで実際に行なわれているような学習では、建築は狭く拘束されてしまうに違いない」
 本書はルネサンス以降の西洋の建築史を俯瞰しているように見えるがじつは「建築史」ではなく、あくまでも「”近代”建築史」なのだ。

アカデミズムに勝利したあと

 その後、近代建築が古典主義に勝利し、さらにポストモダンが台頭してくる。近代建築を代表する建築家は、ル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエ、ヴァルター・グロピウス、フランク・ロイド・ライトなど、現在でも巨匠と呼ばれている。しかし彼らが現役で活動していた時代、決して近代建築は安泰ではなかった。実際に1930年代以降に作られた大型建築のなかにも古典主義、歴史主義的なものも多くある。本書は近代建築のアカデミズムとの戦いのために書かれたものなのだ。その本がいまでも読み継がれているということが近代建築の勝利を物語っている。1968年、エコール・デ・ボザールからは建築が除外され、絵画と彫刻のための美術学校になっている。
 建築は方針に合わせて複数の分校で教育されるようになる。そのなかにはバウハウスの影響をうけた教育方針をもつ分校や、新しい工業技術を取り入れた建築のありかたを方針に掲げる分校もあった。すなわち近代主義的な建築を取り入れたのだ。このアカデミーの変化には近代建築家たちによる影響が大きく働いたことは間違いない。そこには本書が与えた影響も小さくはないはずである。
 奇しくもエコール・デ・ボザールから建築が外された1968年にギーディオンはこの世を去る。近代建築の勝利ために「近代建築の教科書」を書き、その勝利を得たともいえる年に75歳の生涯を終えた。

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