◆ルイ・ピエール・バルタール 『ボザール建築理論講義』


エコール・デ・ボザールの教授

本書はエコール・デ・ボザール(フランス王立美術学校)の講義をまとめたものである。書かれたのは1835年頃で著者は建築理論講座の正教授であったルイ・ピエール・バルタールである。ルイ・ピエール・バルタールは18世紀後半の建築家であるが、一般的な知名度はそれほど高くはない。

現在、よく知られている建築家のほとんどは近代以降の建築家であり、それ以前の建築家で有名な人物となると、ルネサンスまで遡ることになるのではないだろうか。

本書には巻末に『バルタール小伝』として彼の経歴がまとめられている。
それによるとバルタールは1764年にパリで生まれる。最初、アカデミー付属の学校で彫刻を学んでいたが、風景画のデッサン能力の高さを認められローマに留学することになる。そこで、古代ローマの建築遺跡について学び、水彩画などを残している。さ

らに、ローマではローマ賞を受賞して留学していた建築家たちと親交を結び、これらの経験から建築の道へ進むことになったようだ。

エコール・デ・ボザールで講義するということは当時、大変名誉なことだった。バルタールのように別の道から建築へと進んで、そこまでの地位になった建築家は異例だったのではないか。いまのように個人の意志で簡単に進路を変更できるような時代ではなかったはずだ。

ちなみに彼の息子は、建築家のヴィクトール・バルタールである。父のもとで建築を学び、アカデミーの最高峰である、ローマ賞を受賞している。

ヴィクトール・バルタール
(https://ja.wikipe
dia.org/wiki/)

近代以前の建築

建築家として、ルイ・ピエール・バルタールはいくつかの実作を残している。もっとも有名なものにリヨン裁判所というものがある。

本書の小伝にも写真が掲載されている。正面に巨大なコリント式円柱が並ぶ、いわゆる古典主義的な建築である。建築史のなかでは新古典主義にカテゴライズされる。

近代以前の建築家が個人として知名度が低いのは、その作品に個人が特定可能なほどの特徴がないからだろう。リヨン裁判所にもバルタールの個性といえるようなものは特にない。そういったものはあってはならないと考えられていた。建築作品に個性はもとめられていない、それが彼ら古典主義者の建築に対する姿勢だった。
それがどのような思想から導かれているのかは本書を読むことで垣間見ることが出来るだろう。 

リヨン裁判所
(https://www.expedia.co.jp/)

本書の内容は『建築理論講義』というタイトルにあるように、建築理論について書かれている。逆に技術的なことに関してはほとんど書かれていない。
基本的な姿勢としてはこれまでの建築が培ってきたものを正しく継承していくことを目指す。天才がみせるひらめきなどには否定的な見方をしている。

天才による、「形式に捕らわれない自由な遣り方」は建築の本質とは相容れないとバルタールは語る。なぜなら、この遣り方には研鑽を必要としないからだ。

バルタールは建築を学ぶためには、模範となる偉大な大家に対する敬意が必要だと主張する。誤った建築の体系や放埓な天才の非常識さは、建築という永続的な作品を生み出すとき、欠点や誤りを後世の人々の判断に手渡すことになる。

重要なのは、ある種の序列的な体系が確立され、理論の研鑽と実践の研鑽とを繋ぎ合わせることだという。これはすなわち、エコール・デ・ボザールでの教育が、そういったものであることを指している。

本書には『建築理論講義開講の辞』という章タイトルがつけられている。つまり講義を開始するときの挨拶であり、エコール・デ・ボザールの講義がいかに重要で意義深いものであるかがここでは語られている。

エコール・デ・ボザール
(https://ja.wikipedia.org)

建築家の仕事は図面を書くことではない

バルタールは続けて述べる、「偉大なる大家諸氏の簡潔なる遣り方に則って、諸々の計画を構想し、諸々の規範を作成することに立ち戻ることに致しましょう」と。
そして古代の建築家の遣り方に則るということの説明のために、カトルメール・ド・カンシーの『系統的百科全書-建築辞典』からの引用をする。
カトルメール・ド・カンシーとは、同時代の美術批評家であり、アカデミーの重鎮でもあった人物だ。

この引用では建築図面についての著述が紹介される。要約すると、古代の建築家は施工管理も行っていたので図面は素描程度のものであった。

ところが施工を別のものが行うようになってからは図面のすみずみまで美しくし、「より行き届き、より凝った、より申し分のない図面」を建築家は残すようになった。しかしカトルメール及び、引用者のバルタールの主張は、図面自体を美しく仕上げることは重要なことではない、ということだ。

ここでバルタールは、絵画のような図面を作成することが建築家の仕事ではないということを述べる。図面に表現される建築物の外観は構成の副次的な部分でしかないし、外装は建造物の衣装でしかない、と。

重要なのは「良く適った間取りとの関わりの下に諸々の計画を研究する」こと、すなわち「多様を極めた配置の数々」を的確に判断し、「調和のとれた構成を伴った望ましい秩序」や快さという利点を生むことだ。これらは建築の重要性として、現在の感覚でも十分に理解可能だと言える。

建築の起源と、その模倣

つづいてバルタールは建築の起源ついて語る。ここではウィトルーウィウスが引用される。ウィトルーウィウスは紀元前に活躍したといわれるギリシアの建築家である。建築家としての活動については不明だが、世界最古の建築書を残している。
ウィトルーウィウスは、「小さな田舎小屋が建築のあらゆる壮麗さが想像された際の拠りどころ」だという。バルタールも田舎小屋や穴居構造物に建築の起源を見ている。そのうえで、それらを模倣してこなかった建築の歴史を顧みている。

『建築について』をアウグストゥスに披露するウィトルウィウス(右) (http://ja.wikipedia.org/より)

『建築について』をアウグストゥスに披露するウィトルウィウス(右)
(http://ja.wikipedia.org/より)

バルタールはここで起源に立ち戻るべきだと主張しているわけではない。逆である。これまでの大家たちも決して、その建築の起源を模倣しつづけてきたわけではないと、述べる。
重要なのは「建造、間取り、そして装飾がそれらのまとまりの中に、良く配列された自然な、そして、あらゆる部分の完璧なる一致を生ぜしめるようなひとつの全体を与える」ことであり、「内部の間取りと外部において目に入る部分との間の統一とシンメトリー」である。

研鑽の環

バルタールが本書において主張するのは、行わなければならないのは新しい研鑽であるということだ。 この研鑽はルネサンスの建築家たちによってつくられた研鑽の環というもののなかに組みこまれる。 そしてその環から外れた逸脱がもつ危険を指摘するのが、教授の責務であるとバルタールは語る。
バルタールにとっては後期ローマ帝国の構造物は野卑であるし、またゴシック様式には欠陥が数々あるという。

現在から見ると、エコール・デ・ボザールは前近代的な古典主義的建築を教えていた学校という位置づけになる。 しかし、ひとことで近代以前といってもそのなかには各種の様式がある。ドリス式やイオニア式、コリント式といったオーダーがある。近代以前にも、ゴシック様式に否定的なものもいれば、その愛好者もいる。
その時代のなかでそれぞれが正しいと主張する芸術があり、建築がある。そのどれが誤りでどれが正しいかを言うことはできない。古いものが誤りで、新しいものが正しいとは言うことはできない。

すでに過去のものといっても過言ではない古典主義的な建築のなかにも、その後の建築と同じように真摯に向き合った建築家や理論家が当然存在していた。伝統を継承することに執着するあまりに建築や芸術の創造性を軽んじていた、などということは言えない。
彼らもやはり、建築とはなにか、どうあるべきか、ということに心血を注いでいたのだ。古典主義的な建築はその後、大きく変わることを余儀なくされるが、その理論や建築における重要性の認識においてはいまでも十分に適用可能なものがある。

パルテノン神殿のドリス式オーダー(wikipedia.orgより)

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