◆ル・コルビュジエ 『ユルバニスム』
 


ユルバリスム=アーバニズム

ユルバリスムは英語ではアーバニズム(urbanism)、つまり都市(urban)のことであり、通常は都市計画全般を指す。

コルビュジエによる『ユルバリスム』は、都市のありかたについて書かれた本だ。内容は「都市計画をいかに進めるか」なのだが、コルビュジエの手にかかると、それは詩的な表現を多く含む文章となる。

出版されたのは1924年。コルビュジエが共同で建築事務所をひらいて二年後のことだ。
執筆していた時期はそれよりも前であると考えられるので、ほとんど建築家としての実績がなかった時期に書いたことになる。
この頃の建築作品の実作としては母親のために小さな家を設計しているくらいだ。

小さな家(http://www.myswitzerland.comより)

小さな家(http://www.myswitzerland.comより)

そのような、建築家としての実績があまりない時期に書かれたものにしては、本書の内容は壮大なものだと言える。本書を読むと、コルビュジエの問題意識の高さを感じる。また建築家として生きていく上での強い使命感のようなものも感じる。
単に建築物を設計するだけではなく、建築家として生きていくことで何ができるか、あるいは社会にどのような貢献が可能かということを真摯に考えている。

創造と芸術

本書の第一部には「総論」というタイトルがつけられている。ここでは<秩序>、<永続性>といった抽象的なタイトルで、根本となる思想が書かれている。

たとえば<秩序>の章のなかには次のようにある。
「混沌とした自然の中で、自己の安全のために人間は環境をつくりだす。」
都市計画について書くときに、コルビュジエは人工物が一切ない、原始の自然からはじめる。

「人間の制作は創造である。そしてその創造は、精神に近づき、身体から離れ遠ざかるほど、自然的環境を対照的なものとなる」

コルビュジエは、自身が無神論者と呼ばれることについても触れている。
神が人類をつくったとするキリスト教社会のなかで、コルビュジエは人類が野生の状態から創造によって進化し「人」となってく、という認識でいる。

さらに創造されたものは、人間の直接的な把握から遠ざかると幾何学に向かうとも書かれる。
「身体に触れるヴァイオリンや椅子には幾何学が少ない」

創造の最も高い段階においては、最も純粋な秩序に向かう、それが芸術作品であるとコルビュジエは語る。

技術と全体

<永続性>の章では、技術について書かれる。ここでは「技術者は一粒の真珠である」と書かれる。
首飾りと、それを構成する真珠になぞらえて永続性について語る。

首飾りのなかで、技術者は隣の二粒の真珠しか見ることができない。その二粒とは、「すぐ前の原因」と「すぐあとの結果」である。そのことを非難しているわけではない。
原因と結果を見るという、そこにこそよい技術者の条件がある。

そして、印象的なのは「詩人は首飾り全体を見る」と書いているところだ。ひとつひとつの真珠の連なりが芸術であるとも読める。
このあたりに、技術や工業も、それが高度に発展すれば芸術たりえるというコルビュジエの考えが見える。

<分類と選択>という章では、生理的な反応について言及している。
線が折れて角々しく、ぎくしゃくして規則的な律動を欠くときや形が鋭くとげとげしいとき、「われわれの感覚は苦しさや痛さを感じる」とし、これらは「野蛮」だと書く。

一方で、線が連続して規則的であり、形が折れ目なく十分に包まれ、明らかな規則に条件づけられているとき、「われわれの感覚は慰められる」とも書かれる。そして、これは生理的なもので反論することはできない、とする。

コルビュジエは「都市は折れた線でわれわれを圧倒する。」という前提で本書を進める。

ル・コルビュジエの構想した現代都市 (http://tenplusone-db.inax.co.jpより)

ル・コルビュジエの構想した現代都市
(http://tenplusone-db.inax.co.jpより)

都市のかかえる問題

つづいて、コルビュジエは都市を車に例えて、その問題点を指摘する。

「人々は、古自動車のすっかり錆びついたエンジンと化している」

エンジンとは、すなわち都市の中心部のことを示している。「車台、車体、座席(都市の周辺部)、どれもまだ大丈夫だ」と書く。しかし都市の中心部が故障している。

これはしかし、都市の中心部に住む人々が悪いと言っているわけではない。都市の中心部に問題があるために、人々が「錆びついたエンジン」と化してしまっているのだ。

なぜこのようなことになってしまったのか。
まず都市はかつては軍事的な防衛計画にもとづいて設計されていた。城壁、門、外から達する道によって都市の外周は明確にされ、人々は周辺から都市のなかへと入ってきた。

今日では、都市の出入口は中心にある、それはすなわち駅だ。駅を都市の中心に設けるとにより、中心部に人々が集中するようになる。

コルビュジエは都市の中心は致命的に病み、周辺は虫に喰われたようになると書いている。
それを解決するために必要なことは、「自由に拡張できる地域をつくること」、それが都市計画の肝要となる。

Urbanisme, Berlin, Germany, 1958 (http://www.fondationlecorbusier.frより)

Urbanisme, Berlin, Germany, 1958
(http://www.fondationlecorbusier.frより)

第二部研究室の仕事、理論的な探求

第一部の総論につづいて、第二部では都市計画についての概要について書かれている。

ここでは人口300万人の規模の現代都市を計画している。この計画は1922年にパリのサロン・ドートンヌ展に出されたものだ。

世間的に建築家として認知されていない時期から、すでのこのような都市計画案を考えていたことになる。職業として建築家という肩書きを得るはるか以前から、すでにコルビュジエは建築家であったのだ。

ここで指摘されているのは「今日の都市は、都市の肺である植込地を犠牲にして人口密度を高めている。」ということだ。すでに緑化に対する意識の高さが見える。

人口密度の高まりには限界がある。必然的に「交通」について考えなければならない。コルビュジエは交通は分類されるべきだと考えている。

都市を大きく通過していく高速車のための道、近い距離をあらゆる方向に向く変速車のための道、さらに重量車のための道を分けて通すべきだと主張する。

都市計画に必要なことは、避けられない人の集中とそれをスムーズに緩和するための交通なのだ。

コルビュジエの思想

コルビュジエといえば住宅を「住むための機械」と言ったのはあまりにも有名だ。

絵や彫刻も制作する芸術家でありながら、機械や工業についても肯定的で大量生産を推奨しているような記述も多い。

都市において重要なこととして、「高層に建てること」ということがある。これは人口が集中するのを受け入れていくために上に拡張するということである。

また地下や地上の低層を交通のために利用するということも同時に意味している。

「現在の都市は、幾何学的でないゆえに死にかけている。」とコルビュジエは語る。これは本書の総論につながる。

都市は幾何学的であるべきで、規則的な敷地に変えていくことが重要であるとする。

そして規則的な設計の結果は、大量生産である。「大量生産の結果は、標準であり、完全さである」とコルビュジエは主張する。この説明部分には、ドミノ住居やシトロエン住居の図が差し込まれる。

シトロエン住居(http://www.fondationlecorbusier.frより)

シトロエン住居(http://www.fondationlecorbusier.frより)

細部と全体、人体の内部

コルビュジエは、都市計画とは「細部と全体における動きに一貫性を求めるもの」だとしている。

細部における一様性とは、すなわち幾何学的に利用された敷地の上での大量生産の建物のことだろう。幾何学的に大量生産されることで拡張も容易になる。

それでも全体においては、すべてが規則的、画一的にるわけではなく混沌で不規則さがでてきてしまう。そこで重要なのが、交通の分類による流動性の高さということになる。

真珠の首飾りの例でいうならば、細部を見るのは技術者であり、全体を見るのは詩人であった。コルビュジエは技術者として細部について語り、詩人として王を例にだして全体を見ようとする。

本書の最後には人体の臓器の絵が載せられている。

これは本書の内容を読んだ友人から提案されたものだという。血液の循環のように交通がなされ、混沌としていながらも重要な各器官が無理なく収まっている人体のありかたは、たしかに都市の理想的なかたちだ。

人々の集中する都市について考え、つきつめた結果が人の体内のありかたを連想させるものだったというのは、どこか象徴的なことのように思える。

【関連】
アルド・ロッシ『都市の建築 』
E・ハワード『明日の田園都市』


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