◆磯崎新 『磯崎新の建築談義#02 アクロポリス[ギリシア時代]』


※リンクは同シリーズの別の本です

西洋建築の起源としてのパルテノン神殿

建築家の磯崎新が世界の代表的な建築物について述べるシリーズの一冊。建築評論家の五十嵐太郎と対談形式でギリシアのパルテノン神殿について語っている。収録されている写真は篠山記信が撮影している。

内容としてはパルテノン神殿、およびギリシア建築が西洋建築の起源とされるようになった理由を中心に述べられている。また日本でのパルテノン神殿の扱いについても述べられる。

パルテノン神殿(wikimedia.orgより)

パルテノン神殿
(wikipedia.org)

ギリシア建築とは

ギリシア建築の特徴のひとつにオーダーがある。オーダーとは様式のことで、柱の模様や比率についての決まりごとのことだ。

五十嵐はつぎのように述べている。
「オーダーは建築の各要素をきちんと組み合わせるための文法にあたるんです。面倒なルールですが、逆にそれを守れば、美が保障されるという意味で便利なものなのです。つまりオーダーを用いれば、自動的に「建築」が生成される。」

なにが美なのかという問いを前にしたとき、「オーダーに則っているもの」というひとつの答えが用意されていた。

パルテノン神殿のドリス式オーダー(wikipedia.orgより)

パルテノン神殿のドリス式オーダー
(wikipedia.org)

ギリシア建築には空間のありかたにも特徴がある。神殿は住宅というよりは倉庫に近い。パルテノン神殿は回廊空間が唯一の空間であり、実際は倉庫だと磯崎は言う。その中にふさわしいものを入れることで神殿としての意味をなす。ギリシアはもともと温暖な気候で、雨風を防いで寒さや暑さから身を守るという意味での住居は必要ではないという。極端に言えば、広場で野宿していても生きていくことに困らないような気候なのだ。

パルテノン神殿がヨーロッパのトップに立ったのはいつか

ヨーロッパにおいてギリシア建築、パルテノン神殿が建築の起源とされるようになるのは19世紀になってからだと磯崎は言う。もともと14世紀のルネサンス建築では、ギリシアではなくローマ建築を模している。

もっとも古い建築書といわれるウィトルーウィウスの『建築書』がルネサンスの建築家にとって経典のように扱われていた。ウィトルーウィウスは紀元前1世紀後半にローマで活躍した建築家だ。

1453年の東ローマ帝国のコンスタンティノープル陥落以降、ギリシアを支配していたのはイスラム世界だった。ルネサンス当時もヨーロッパの建築家たちにとってはギリシャは別世界にある地であった。この状態は400年ほどつづく。ギリシャは18世紀後半にオスマントルコの支配から自由になった。ヨーロッパ人がギリシアに行けるようになり、探検や研究がはじまった。そして、ギリシアこそがローマ文明のもとであり、かつラテン語で西洋文明の起源ではないかと推定されるようになる。

近代のはじまりの19世紀

19世紀というのは「起源」を探求することで近代へと進んだ時代でもあった。このときのギリシア探求はヨーロッパの国々の建国の理念に大きく影響していると磯崎は指摘する。

「ヘーゲルやマルクスもやはりギリシアですね。ニーチェはギリシアの文献学の研究ですし、マルティン・ハイデガーやジャック・デリダも究極のところすべての参照をギリシア哲学へと送りかえしている」

「建築、美術、演劇、政治理念、とりわけ哲学といった文化の根底にあるものすべてが、ギリシアに起源をもとめている」

もうひとつの神殿

この本ではパルテノン神殿の他にもうひとつ、パエストゥムのポセイドン神殿にも言及している。

パエストゥムの神殿 (http://ja.wikipedia.org/より)

パエストゥムの神殿
(http://ja.wikipedia.org/)

18世紀半ばにイタリアの南の丘の上にあったアクロポリス跡から神殿が発見された。ここは伝染病が発生して、人びとが全部退去してしまった場所だった。そのため森が生い茂り、草におおわれ、建物があることすらわからない状態だった。新たに発見されたポセイドン神殿はパルテノンの神殿とほぼ同時代のものにもかかわらず、異なるプロポーションを持っていた。このことから、当時の建築のすべてがオーダーに則って画一的につくられていたわけではないことがわかった。

そしてこのパエストゥムのポセイドン神殿のほうがパルテノン神殿にくらべて荒々しく迫力があるものだった。ここに、美に対して崇高性という概念が生まれる。

日本におけるパルテノン神殿の地位

西洋からの建築が日本に入ってきたことで、パルテノン神殿は日本の建築においても特別な存在となった。日本にきた外国人建築家から建築を学んだ伊東忠太はパルテノン神殿と法隆寺の共通性を探る。当時、日本建築の頂点にあったのが法隆寺であった。

金堂と五重塔(wikipedia.orgより)

金堂と五重塔
(wikipedia.org)

その後、その地位は法隆寺から伊勢神宮へと代っていく。その理由のひとつとして、本書では寺院と神社の差をあげている。
「法隆寺が仏教だから、中国と接続してしまう」
「それで直線的なものをもちあげて純粋な日本建築のイメージを捏造し、神道のための神社はいいという」
法隆寺から伊勢神宮へと日本建築上の順位は変わった。しかしパルテノン神殿がのその地位が落ちることはなかった。

不動の一位、パルテノン神殿

パルテノン神殿がいまだに重要な建築として扱われるのはなぜか。それは19世紀にギリシアがヨーロッパの起源として探求されたからというだけでなはない。19世紀のヨーロッパが起源に認めても、その後の潮流が変われば意味をなさないはずである。古典主義はその後、近代建築によって建築の主流からは外れてしまう。それでもパルテノン神殿はいまだにその地位を保っている、なぜだろうか。

その理由は近代建築の巨匠である、ル・コルビュジエもこの神殿に魅せられたからだ。磯崎は「コルビュジエの最大のレトリックは、パルテノンを機械につないだ」ことだと語る。

コルビュジエは古典主義建築を否定したが、その源流とも言えるパルテノン神殿は否定しなかった。コルビュジエの有名な言葉に「住宅は住むための機械」というのがある。発展しつづける工業製品のように、建築も発展する必要があるとコルビュジエは考えていた。コルビュジエがパルテノンと機械を結びつけたことで、パルテノンは古典主義の源流からモダニズムの源流となる。

コルビュジエが活動していた当時、古典主義が主流の建築界で、自身の近代建築の正当性を主張するのにパルテノン神殿ほど最適なものはなかった。先に磯崎が述べたように、「文化の根底にあるものすべてが、ギリシアに起源をもとめている」からだ。
こうして、建築の主流が古典主義から近代主義へと変遷を経てもパルテノン神殿は重要な建築で在り続けている。

【関連】
建築書のブックレビューの一覧
ウィトルーウィウス 『建築書』1/2
藤森照信 『日本の近代建築(上)―幕末・明治篇―』
ル・コルビュジエ 『建築をめざして』