中世ドイツの建築
原書は1959年にドイツで出版された。
ルネサンスを中心にその前後数世紀にわたる中世の建築が、どのように建てられていたかが書かれている。
建築物を建てるときの具体的な手順、例えば最初の構想と計画、土台となる基礎の工事、実際の建設、工事の監督と管理、建築法規などなど、中世の建築現場での実際の事柄について概観的に書かれている。
著者のアンドレアス・グローテはドイツで生まれ、ミュンヘン大学で博士号を取得している。本書ではヨーロッパ全体の建築について書かれているが、とくにドイツでの状況を詳細に書いているところに特徴がある。
ウィトルウィウスの影響
中世の建築の大きな転換点となったのは、ウィトルウィウスの「発見」だ。ウィトルウィウスは、紀元前の古代ローマの建築家で『建築書』を書き残した。この『建築書』は、その後、長い間忘れ去られていた。
それが15世紀になってスイスの修道院の図書館から完全なかたちで発見されたのだ。その少し前にはイタリアのモンテ・カッシーノでも一部欠けた状態で見つかっていた。
15世紀当時、この本をドイツに紹介した人物がいた。ヴィリバルト・ピルクハイマー、ヴァルター・ライフといった人物だ。
なかでもヴァルター・ライフが書いた『ドイツ語版ウィトルウィウス』は訳語も正確で、注釈もあり、挿絵も充実していた。
この『ドイツ語版ウィトルウィウス』が中世ドイツの建築に与えた影響は計り知れない。
本書にはこの『ドイツ語版ウィトルウィウス』からの挿絵も多数収録されている。
建築は秘密だった
ウィトルウィウスの著作が広まる以前、そこに書かれていたような建築に関する技術・知識は棟梁を中心とした仲間内でのみの秘密にされていた。
ドイツにはツンフトと呼ばれる職業組合があり、そのなかでのみ技術・知識は継承され、新しい技術が発明されても自分たちのみのものとして秘密にしてきた。
本書には次のようにある。
「ツンフトというものは、そもそも閉鎖的であり、建築技術者のための公共の学校は存在しませんでした。今日のかたちの専門学校は18世紀になってから成立したものですから、歴史的にあまり古いものではありません。」
つまり、教育はすべて建築の棟梁から教わることであり、そこで伝承されることが大事なことだった。
このような時代に『ドイツ語版ウィトルウィウス』が、当時発明されたばかりの活版印刷で大量に作られた。
このことにより、それまで秘密主義的に扱われてきた技術や知識を建築家たちが体系的に理解できるようになった。
複数の書物から読み解く中世の建築
本書にはヴィラール・ド・オヌクールの画帖からの絵も多数掲載されている。この画帖は、中世の建築を知るための貴重な資料であり、建築現場の足場のスケッチなどから当時の様子をうかがい知ることができる。
さらにドイツ・ルネサンスの画家として有名なアルブレヒト・デューラーの名前も本書にはたびたび出てくる。
ルネサンス人であるデューラーは書籍も複数残しており、本書でも『人体均衡論』『都市・城郭・村落の要塞化に関するいくつかの指南』といった書籍について言及している。
ゴシックをはじめ中世の建築がどのように作られたのかは正確な記録が残っているわけではない。
著者のグローテはルネサンス時代に書かれた複数の書物を参照しながら中世の建築についてまとめている。
中世に「建築家」は存在しなかった?
本書を読んで、現代と最も大きく異なると感じたのは建築設計者の不在という点だ。
中世では、現在の建築家のような職種は単独では存在していない。とくに中世初期では、建築施主自身がかなりの程度まで構想を練り、計画を立てた。中世の建築の施主とはつまり君主や教会の修道院長などだ。有名な建築物について、施主の名は残っているが、建築家や棟梁の名は残っていない。
本書でも次のように書かれている。
「サン=ドニの教会堂を建てた棟梁も、疑いもなく天才的な人物ですが、この人の場合にも、同様、その名が伝わっていません。」
「大修道院長のシュジュは、施主として、厳格なスコラ哲学的理念をもち、それを建築というかたちで表したいと考えており、そこで出会ったのが一人の天才的な建築家だったのです。」
サン=ドニ大聖堂は初期ゴシックを代表する建築だ。シュジュはサン=ドニ大修道院長であり、12世紀頃、元々あったサン=ドニ大聖堂をゴシック構造にした人物だ。
修道院長はもちろん建築家ではない。現在でいうと政治家に近い存在である。ゴシック構造に大修繕したときに、その実現を手助けした建築家がいたはずだ。その人物こそ、ゴシック建築をつくった人物と言っても過言ではない。しかし、その建築家が誰だったのか、どのような人物だったのかは今となってはわからない。
彫刻家と棟梁が建築家だった
また当時の建築について次のように書かれている。
「建築を行う石工は、建築家であると同時に、彫刻家でなければならなりません。中世においては、これらの二つの能力が別のものと考えられることはなかったからです。そこで彼らは、建築の一部分となる彫刻の仕事、例えば、柱頭、葉状飾り、あるいはもっと単純な仕事ですが、要石などを削る作業をしなければなりませんでした。」
ルネサンス期の重要な本に、ジョルジョ・ヴァザーリが書いた『画家・彫刻家・建築家列伝』がある。ここには当時の芸術家たちの伝記が書かれている。当時のほとんどの建築家は建築家兼彫刻家または画家だ。ブルネレスキは最初は彫刻家だったし、ブラマンテは画家、ミケランジェロは絵画も彫刻も残した。絵画や彫刻で評価されたことで建築の仕事をするという流れがあった。
さらに、建設現場の大工の棟梁にも現在の建築家が担う役割が求められた。
「棟梁には、今日の建築家と同様、一つの建築を頭に浮かべ、それを設計図として具体化し、そのコンセプトを建築の全体および各部分に刻み込んでゆく能力が要求されます。」
現在、建築家といえば建築デザインをおこなう職種だ。デザインそのものは実物が完成するまで目には見えない。そこでデザインを紙に描き出して、設計図として利用する。つまり頭の中のアイデアを紙の上に出力することで、建築家という職業が成立している。
紙が貴重だった中世においては、建築の設計図は現場の石工や棟梁の頭の中にあった。