名前のない建築
人間が生活するうえで住居はなくてはならないものだ。それは最初、雨や風をしのぎ外敵から身を守るためにつくられた。住居はその地域の気候や地形に合わせ、さまざまな形をとる。建築史よりも古くからある、それらの建築物には、建築家の名前は存在しない。誰が考え、誰がつくったのかはわからない建築物たち。世界中に存在する、それら建築物をあつめたのが本書である。
本書は1964年にニューヨーク近代美術館で開催された「建築家なしの建築展」のために集められた写真をもとにしている。ひとつひとつの建築物自体にも固有の名称が存在しない。いちおう便宜的につけられた名前はあるが正式なものではない。
これまで「建築」ではなかったものたち
集められた写真を見ていると、さまざな形状の建物があることがわかる。それは周辺の自然と密接に関係している。厳しい自然環境のなかで生きていくためにつくられた住居ではさまざまな工夫がなされている。住居をというものは多くの場合、定住を意味する。
そこで最初期の建築において住居の他に必要となるのは食料の倉庫と墓である。これは「生」と「死」を、あるいは「未来」と「過去」を象徴するものである。このような象徴性をもった「建築」には、生活していくためという「機能」以外に、「宗教」や「信仰」という観点から見る必要がある。
しかし本書では最低限の解説しかなく、そのような考察はあまりない。あくまでも建築物としての考察となるのだが、そこに本書の存在する意義がある。つまりこれまで人類学や民俗学、宗教、伝承など、別の分野において観察対象ではあったものたちに、「建築」というフィルターを通して焦点を合わせたのだ。
常識が常識でなくなるとき
本書にある写真を見ていると、現在の我々の住居もたくさんあるなかのひとつの形でしかなく、別の形も存在可能であったかもしれないという思いが湧き上がってくる。それは住宅という建物についてだけでなく、生活全般、社会のありかた全体についても言える。
たとえば住居と仕事場とを交通手段を使用して移動するという行為は、私たちにとってごく当たり前のものとしてあるが、それは決して絶対的なものではない。また、多数の住民からなる「集落」を考えたとき、中心となるメインストリートとそこから枝分かれするわき道というパターンも決して普遍的なものではない。本書に収録されている、空中から撮影された写真を見ると、道がまったく見えないほど折り重なるように住居が建てられている場所もある。
過去から現在までの時間の流れに思いを巡らすとき、次のように考えがちではないだろうか。つまり人類は進歩をしつづけており、いまがそのもっとも進んだかたちであると。現在の我々のスタイルこそが現時点での最適解だと。
けれども、それは大きな勘違いかもしれない。いまある状況とは偶然が重なってできたものであり、たくさんあった可能性のなかのひとつに過ぎないのではないか。
画一化される建築
現代の建築においてはその主流がヨーロッパにあるのは間違いない。その源泉にあるのはギリシャ文明や古代ローマだ。同じ時代に地球上の別の場所には、それらから影響をうけていない独自の文明があり、文化があった。そこには独自に発達した「建築」もあったはずだ。
それらの「建築」は歴史のなかで消えていってしまった。残ったのは、より快適でより安全でより効率的な価値観にもとづく「建築」だ。そのような価値観にもとづくものを我々は「進歩」と名付けた。結果的に画一的で機能性重視のものばかりが溢れるようになった。
画一的な世界になったことではじめて、土着な、それゆえに個性的な過去の建物たちが注目されるようになったとも言える。
画一化は避けられないのか
文化や文明は異なるもの同士で対立し、片方が残り、もう片方が消滅し、それを繰り返すことで最終的にはひとつにまとまるものなのだろうか?
たしかに現在では異なるもの同士でも争うことなく共存していく道を模索しようとする姿勢もある。レヴィ・ストロースの文化人類学やサイードのオリエンタリズムはそのような動きから生まれたものだ。本書もその流れの先にあるのかもしれない。
それでもどちらかを選択しなければならなくなれば、比較し優劣を競い、優れたほうを人は選択するだろう。このときの優劣を決めるのは政治的なイデオロギーであり、経済原理だ。なぜなら「科学技術」を武器とする集団に対し、「宗教」や「信仰」では生き残れないということを歴史が証明しているからだ。そしてその科学技術は経済に支えられており、経済効率がもっともよい政治体制は、いまのところ資本主義とセットになった民主主義だ。
世界のすみずみまで資本主義が席巻し、あらゆる国と地域の政治体制が民主主義に塗り替えられていくとき、その先には「効率を重視し、多数派の意見が採用される」道が続いていくことになる。そのときに選択されるものはおのずと同じようなものに収斂されていくだろう。
そのさまを目の当たりにしたとき、まさにそれこそが「正しいあり方」のように錯覚してしまう。つまり「正しい」からこそ常に結果は同じものに近づくのだ、と。
日本の西洋化
19世紀半ばに日本が西洋化を急いだのは、欧米からの侵略を防ぐためだった。西洋の価値観を導入した結果、現在の「建築」においてその方向性では日本も欧米も大差のないものになってしまった。
本書のなかには日本の建築物もいくつか紹介されている。そのなかで印象的なものとして京都の稲荷神社の参道に並ぶ鳥居の列がある。まるでトンネルのように立ち並ぶ無数の鳥居の写真が載っている。これなどはまさに「信仰」による「建築」だといえる。西欧に学んだ感覚では決してつくられはしなかったものだろう。
本書を読んで、その写真にある遠い過去の建築を見ていると、さまざまなことを考えされる。最低限の情報しか載せていない解説がまた想像力をかきたてる。
既存の建築を追うことで狭められた視野を拡げるのにこれ以上の本はない。