◆ル・コルビュジエ 『ル・コルビュジエ 図面集 vol.4 ユニテ・ダビタシオン』

集合住宅、ユニテ・ダビタシオン

本書はル・コルビュジエの図面集シリーズのなかの一冊。タイトルに『ユニテ・ダビタシオン』とあるように、ひとつの建築作品だけでこの一冊が構成されている。

ユニテ・ダビタシオンはコルビュジエの代表作だ。それはこの集合住宅のデザインが優れているというだけではなく、コルビュジエが長年、考えつづけてきた建築のありかたを体現しているからだ。ユニテ・ダビタシオンの建設依頼がきたのは1945年だが、構想自体はその20年前からあった。この構想というのは具体的な集合住宅の設計というよりも、人が住む住戸、暮らす都市のありかたという広い意味での構想である。

Unite d'Habitation (http://en.wikiarquitectura.comより)

Unite d’Habitation
(http://en.wikiarquitectura.comより)

コルビュジエは建築家として、また都市に住む芸術家として、住宅や都市についての考察をつづけていた。それが現実の建築物として具現化されたのがユニテ・ダビタシオンなのだ。

1945年という年

建設依頼はラウル・ドトリーという人物から受ける。この人物は当時の復興・都市計画省の大臣である。現在、モンパルナス駅前の広場にラウル・ドトリー広場としてその名が残されている。
このときの「復興」とは第二次世界大戦による戦災からの復興である。ドトリーからの依頼は「マルセイユの被災者を受け入れるため」という目的での建設であった。

本書の解説には第二次世界大戦中のコルビュジエについて、「ヴィシー政権に擦り寄るが、期待に反して具体的な計画を手にいれることはできず、その間理論的な計画案を大量に作成することになる」とある。これは戦時中、コルビュジエがナチスの傀儡政権であるヴィシー政権のもとで仕事をしようとしていたことを意味している。そして、それは具体的な建築物の建設までには至らなかった。

Urbanisme, Marseille-Sud (http://www.fondationlecorbusier.fr)

Urbanisme, Marseille-Sud
(http://www.fondationlecorbusier.fr)

集合住宅という”都市”

依頼された建設内容について、解説には次のようにある。
「計画の主たる目的は、1600人の居住者が形成するコミュニティのための適正な入れ物を創り出すことであった」

1600人という人数は現在でいえば、巨大なタワーマンションに匹敵する規模である。注目するべき部分はこの人数の大きさと、さらに「居住者が形成するコミュニティのための」という文言である。単純に1600人分の部屋を設けるだけではなく、彼らが形成するコミュニティーという点も考慮しなければならない。このとき、コルビュジエの考えのなかにあったのは”建物の建設”ではなく、「都市の建設」というイメージだった。

コルビュジエのなかの都市計画の起源

当時、都市計画としてはエベネザー・ハワードの『明日の田園都市』がすでに高い評価を得ていた。

コルビュジエもこの書籍を参考にし、さらに自ら発展させたかたちとして、「垂直方向の庭園都市」というものを発案している。
解説には次のようにある。「ハワードの田園都市では低密度の住宅が水平方向に広く地面を占めるのに対し、ル・コルビュジエは垂直報告に高密度な棟を配置し、地面を開放したのである」と。

『明日の田園都市』の出版は1900年代のはじめである。現在でも都市計画の名著として有名なこの本は、当時すでに広く知られた書籍であった。

Unite d´habitation (http://en.wikiarquitectura.comより)

Unite d´habitation
(http://en.wikiarquitectura.comより)

じつはユニテ・ダビタシオンの原型が1920年代にはあったことがわかっている。この頃のコルビュジエは建築家としてはほとんど無名の存在だった。建築の実作といえば数軒の住宅を手がけたにすぎなかった。従兄弟のピエールと建築事務所を設けたのが1922年。のちに『建築をめざして』に収録される文章を雑誌に書いていた時期だ。

このころにすでに都市の建設をイメージさせる構想を練っていたのだ。

その後の構想の経緯

無名の頃から都市計画を想像していたコルビュジエだが、この構想はその後どのような経緯をたどったのか。

1932年、この頃に設計した賃貸集合住宅では「住戸と屋内道路の適切な相互関係を探っている」と解説にある。1938年、ロンドンで開かれた住宅と設備の見本市に「ユニテ・ダビタシオン」という名の展示をしている。この展示では、ユニテ・ダビタシオンを特徴づける要素がすべて示されている。ピロティや屋内道路、住戸の拡張部分と共用施設、屋上庭園だ。この一部はコルビュジエの住宅作品にも見られる特徴だ。しかし屋内道路や住戸の拡張という概念などは大型の建築物のときにしか生かすことが出来ない理論でもある。

実際に建設の依頼がくるのが1945年。前述したとおり、その前の五年間はコルビュジエの建築家としての実作がほとんどない。
この時期について本書の解説文ではつぎのように書かれている。「1940年から45年は、ル・コルビュジエの建築作品がほとんど実現していない時期である。しかし理論においては非常に多産であった。戦争という状況にも関連した長い考察の末に多くの書が著された。」

まるで、戦後に依頼されるユニテ・ダビタシオンのためにあったような熟考の時間だったといえる。

Unite d'habitation, Meaux (http://www.fondationlecorbusier.fr)

Unite d’habitation, Meaux
(http://www.fondationlecorbusier.fr)

完成までに費やしたもの

ユニテ・ダビタシオンの落成式は1952年10月。建設依頼からは7年、着工から5年の月日が経過していた。

「その間、10の政府と7人の復興・都市計画相と渡り合い、およそ40の施工業者、ル・コルビュジエのアトリエおよびATBATの所員たちと協働した2700枚を超える図面」と本書にはある。

ATBATとは、コルビュジエが設立したユニテ・ダビタシオンのための事務所である。この事務所にはユニテ・ダビタシオンの複雑な現場に備えて、建築家、技術者、専門家、現場監理者、管理経営者などがいた。依頼から竣工までは7年であるが、実際には「探求は1922年に始まり、1952年に完成を迎えるまでおよそ30年にわたってたゆまず続けられた」と本書にはある。

それは、従兄弟のピエール・ジャンヌレと事務所をひらき、建築家として歩みはじめてから、コルビュジエがつねに考え続けてきた計画が実現したということを意味している。

モデュロールとの関係

ユニテ・ダビタシオンの図面の枚数が2700枚。この一部が本書には収録されている。

平面図から完成イメージのスケッチ、ピロティの構造、キッチンの設計図面など多数、収録されている。そこに描かれた人体のイメージはまさに『モデュロール』にあったものだ。コルビュジエが『モデュロールⅠ』をフランスで出版したのが1947年なので、ほぼ設計の完了と時期を同じにしている。

(http://db.10plus1.jpより)

(http://db.10plus1.jpより)

その後の『モデュロールⅡ』では、『モデュロールⅠ』での計算間違いなどを指摘されるわけだが、この『Ⅱ』の出版が1954年なので、ユニテ・ダビタシオンの完成後ということになる。モデュロールの規格にもとづいて建てられたユニテ・ダビタシオンはいまでも高い評価を得ている。理論の上で数学的な計算違いはあったが、その作品が建築史に残る名作として現在まで参照されている。

ユニテ・ダビタシオンはマルセイユで最初に建設されたあと、フランス国内とベルリンに全部で四つ建てられている。実現しなかった計画案を含めると、その数はもっと多い。建築家としての歩みとともに30年にもおよぶ理論を果敢に導入して設計されたのがこのユニテ・ダビタシオンなのである。