16世紀のイタリアとは
本書は、16世紀のイタリアの建築について書かれている。当時、イタリアはいまのようなひとつの国ではなく、ヴェネツィア共和国、ミラーノ公国、マントヴァ公国、ローマ教会領、ウルビーノ公国、トスカーナ公国、ナポリ王国などに分かれていた。そのなかで強い影響力をもっていたのはローマ教皇とフィレンツェのメディチ家だった。当時の建築で見るべきもの、歴史に残っているいるもの、そのほとんどがいわゆるパラッツォとよばれる大型の建築物であり、それら建設には富と権力を持つ教皇や貴族の支援が必要だった。
コーリン・ロウは、本書をドナト・ブラマンテという建築家からはじめる。ブラマンテ以前のローマの建築について、「新しい建築は語るべきものに乏しい」とロウは言う。それほどブラマンテはイタリアの近世建築史において決定的な仕事をおこなった。ブラマンテはルネサンス期を代表する建築家であり、その評価の高さは古代ローマの建築を近世によみがえらせたとして定着している。
レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』のあるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会や、カトリック教会の総本山であるサン・ピエトロ大聖堂の改築計画を当時の教皇の指示のもとでおこなっている。
16世紀に入る前、ブラマンテは最初、画家としてそのキャリアをスタートした。とはいえ最初期の仕事に関しては記録には残ってはいない。ブラマンテは地方都市のウルビーノの出身であったが、北イタリアを遍歴し、当時の大都市であるミラーノに到着する。ここから少しずつ建築の仕事にかかわりをもつようになる。多くは古くからある教会の改修や再編成の仕事だった。
これらの仕事をとおして、ダ・ヴィンチやフランチェスコ・ディ・ジョルジョともかかわりをもつ。フランチェスコ・ディ・ジョルジョは画家であり彫刻家であり建築家、建築理論家でもある、ルネサンス初期の芸術家だ。1499年、ルイ12世のフランス軍がミラーノを支配する。当時50代になっていたブラマンテは避難民としてローマへ移住する。
コーリン・ロウは、ブラマンテの小規模な作品や当時の他の建築、他の画家が描いた素描など、さまざまなものを参照しながら、その後に作られた代表作、サン・ピエトロ大聖堂の知られざる姿を推測する。
ラッファエッロとレオ十世
ユリウス二世の死後、教皇に選出されたのはレオ十世だった。ユリウス二世の死の一年後にブラマンテも死ぬ。
レオ十世は学問と芸術を愛し、基本的にはユリウス二世がおこなっていた計画を継承していく。ユリウス二世にとってのブラマンテのような建築家は、レオ十世においてはラッファエッロだった。
ラッファエッロもブラマンテ同様、画家としてスタートし、絵画の背景を描くなかで建築を学んでいく。ブラマンテの死後、ラッファエッロが後継として指名されるが、当時はまだ大建築をひとつも完成させていなかった。それでも建築の専門家とみなされていたのは、ラッファエッロの絵画作品の背景に描かれた建築物のためだった。ロウは、この時期の重要な建築作品として、ヴィッラ・マダーマをあげている。それは古代を”思わせる”建物であるということを越えて、古代の理想生活をそこでおくろうとする意図が見て取れるものだった。
この建築物はレオ十世のもとで計画され、最初の設計もラッファエッロだった。しかし、ラッファエッロの生前にはほんの一部が建設されたにすぎない。
フィレンツェ出身のクレメンス七世が教皇になると、フィレンツェの事業が優先され、この建築の完成は放棄された。大型建築は建設に時間がかかるため、これ以外にも計画時から建設中に為政者が変わったために実現されなかった建築物がいくつもある。
ラッファエッロの死、次の主役ジュリオ・ロマーノ
1520年のラッファエッロの死によって、イタリア建築は二つの道を辿る。
ひとつはアントニオ・ダ・サンガッロやアンドレーア・パッラディオに代表されるもの。もうひとつはより柔軟で融通のきく、セバスティアーノ・セルリオやミケーレ・サンミケーリ、ジョルジョ・ヴァザーリが示したもの。
この二つが交差するところにいたのが、ジュリオ・ロマーノであるとロウは語る。
ジュリオ・ロマーノはラッファエッロの弟子となり、まずは画家としてラッファエッロの壁面大作の背景建築を描く。建築に関してはラッファエッロの助手としてどの作品にかかわったかは明らかになってはいない。ジュリオは博学で古代研究者でもあった。ラッファエッロの死後、ジュリオは次第に自分らしさを作品に発揮させていく。ラッファエッロの死で、拠りどころをなくしたジュリオはイタリア北部のマントヴァに移住する。ここを支配していたゴンザーカ家にあたたかくもてなされ、この地で建築家として作品を残していく。
イタリア中世の建築家たちが勢ぞろいする
アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョヴァーネ、バルダッサーレ・ペルッツィ、セバスティアーノ・セルリオといった建築家の名前があがる。当時、貴族のパトロンを得て、そのもとで仕事をするという建築家のありかたがあった。前述したゴンザーカ家でのジュリオがそうであるし、当時のイタリアは小国に分割されていたので各国にそのような存在があった。
王侯、貴族に仕えるという以外の建築家のありかたとして、国の建築事業の監督官という地位があった。いまでいうとラッファエッロやジュリオが個人で建築事務所を構える芸術家タイプにあたるのに対し、建築事業の監督官とは公共事業を中心に受注する大手建設会社の設計部のようなものだろうか。その建築事業の監督という実務的な建築家として、ジョヴァーネ、ペルッツィ、セルリオがいる。
ルネサンスを経て、イタリアの建築はさまざまな方向へと進み、包括的な視点で語ることが難しくなってくる。
ヴェネツィアの建築ではヤーコポ・サンソヴィーノの図書館、サン・マルコ広場、ロッジェッタを、またミケーレ・サンミケーリのパラッツォ・ヘヴィラックア、パラッツォ・カノッサなどをとりあげる。ヤーコポ・バロッツィ・ダ・ヴィニョーラについて、建築物としては、ヴィッラ・ジュリア、サン・タンドレーア・イン・ヴィア・フラミニア聖堂、カプラローラのパラッツォ・ファルネーゼ、ボローニャのファチャータ・デイ・バンキ、さらに教会堂建築についても詳述する。
ラッファエッロやジュリオのようなパトロンのもとで活動した建築家のひとりで、メディチ家のもとで活躍したのが、ジョルジョ・ヴァザーリである。ヴァザーリは、トスカーナ大公となったメディチ家のコジモ一世に仕える。
マニエリスムはあえて封印する
16世紀という1世紀のあいだに活躍したイタリアの建築家について書かれているので、人名、都市名、建築物名など固有名詞だけでも相当なものになる。ひとつひとつの建築物についてもそのファサード、ドーム、柱など詳細に特徴が述べられる。
コーリン・ロウには『マニエリスムと近代建築』という代表的な著作がある。マニエリスムとはルネサンスのあとにあった”手法”を特性にもつ芸術のカテゴリのひとつだ。そこにはすでに完成されたルネサンスに対する対向として、崩した作風があるとされるのが一般的だ。
本書の対象である十六世紀は、その後半においては十分にマニエリスムの範疇であるはずだった。しかし本書ではマニエリスムという語は一切使われていない。それについてロウはプロローグで次のように書いている。
「われわれはルネサンスとかマニエリスムといった、意味を背負い込まされた用語を使わないようにした。こういった用語はチンクチェント建築の様式上の多様性や、建築家による重要な功績を曖昧にしてしまうからである。それに替えてわれわれは、理想主義の支配に染められることから無縁な芸術上の(そして建築上の)二種類の野心として、権威と転覆という概念を導入した。」
チンクチェントは1500年代をあらわす語で、つまり十六世紀のことを意味している。
権威と転覆とはなにか
ロウが言う、「権威と転覆」とはなにか。それはさまざま部分で見られる対比でもある。
もちろんそのなかには、ルネサンス盛期の大建築家であるブラマンテとラッファエッロという「権威」と、そこから自由になろうとする、いわゆるマニエリスム期の建築家による「転覆」という対比も可能ではある。実際に、ロウの影響でもたらされた建築史観とはそのようなものであった。
しかし、実際に歴史を詳細に見てみると、その時のパトロンの要望によるものや、過去の古代建築への参照と批判など、さまざまな要素に基づいて建築物は出来上がっているのがわかる。単純に大芸術家による建築と、手法にもとづいた自由な建築という対比だけでは不十分だ。芸術的な建築家と実務的な建築家、様式と個性、時代による差、地域による差、そういった対比が多様性として建築にあらわれる。
十六世紀のイタリア建築はルネサンスとマニエリスムだけではない、そのことを書こうとすると、教皇、貴族、各建築家、各都市、と関連する要素をあげて詳細に記述するしかない。詳細に記述するときに、「ルネサンス」や「マニエリスム」という、便利な単語は全体を覆ってしまい細かい部分が見えなくなってしまう。
どのような分野でも、高く評価されたものがあった後にはそれと対向しようとするものと、それを継承しようとするものとがでてくる。その繰り返しが歴史となる。認められ主流となった権威は、それゆえに転覆され、その後には別の主流が権威となる。
本書は”16世紀”の”イタリア”という限定した範囲での、さまざまな権威と転覆の歴史を語っている。