近代建築と日本近代建築
日本近代建築の通史を新書二冊にまとめたものだ。上巻では幕末・明治の日本近代建築について書かれている。ここでいう「近代」とは明治期の日本の近代化という歴史を背景にもつことを意味している。日本での「近代」とは一般的に明治維新から第二次世界大戦までの時期を差す。
建築史において、「近代建築」といえばル・コルビュジエやフランク・ロイド・ライトなどの建築を指すが、日本近代建築はそれら西洋の近代建築とは異なる。
日本の近代化の時代につくられたというだけで、建築作品としては「近代建築」の作品のもつ特徴を有してはいない。そもそも明治時代にはいわゆる西洋の近代建築はまだ誕生していない。
日本近代建築の源流、東回りルート
本書で扱っている日本近代建築とは基本的には明治時代の洋館のことだ。すなわちそれまであった日本家屋や寺社とは異なり、西洋の建築知識を取り入れて建てられたものの総称として日本近代建築とよんでいる。
その西洋の建築知識の伝来について、藤森は地球を東回りで入ってきたものと西回りで入ってきたものとがあるという。東回りとはアジアを経由して長崎や横浜にきた外国人商人によってもたらされた。彼らは日本に来る前には中国沿岸部の外国人居留地にいたと考えられている。彼らが住むための居留地に建てられた家屋で、特徴的な部分はヴェランダがあるということである。しかしこのヴェランダを張り出す伝統はヨーロッパにはないという。ヴェランダがあるのは、アフリカ中央、東南アジア、東アジア、南洋諸島や北アメリカ南部など、いずれもかつてヨーロッパの植民地だったり、居留地が置かれた地域である。つまり、大航海時代以降、ヨーロッパが進出した先の暑い地域で生まれた形式なのだ。
本書ではこの時代の日本近代建築の代表的な例としてグラバー邸をあげている。このグラバー邸はヴェランダが凹凸を繰り返しながら展開する外観をもち、これはヨーロッパはもちろん、アジアにもない不思議なクローバー型をしている。
日本近代建築の源流、西回りルート
もう一方の西回りルートとしては、板張りの白い西洋館という特徴を持つ。これは下見板張りという建て方のものであり、アジアの他の地域にはない。北アメリカ、カナダ、カリブ海にこの建て方があり、その起源はヨーロッパの片隅、イギリス南東部かスウェーデンだと考えられている。この建築の代表的な例は札幌の時計台である。これを手がけたのはウィリアム・ホイラーという人物であり、クラーク博士とともに来日した。この東回りと西回りのそれぞれのルートから上陸した建築が、日本国内で混ざり合って日本近代建築の初期の建築たちが建てられた。
幕末、明治期の外国人建築家と大工の棟梁
この時代には日本には建築家という職業は存在しない。もっとも近い職業としては大工の棟梁だ。そこに来日した外国人建築家たちがいた。彼らはおもに近代化に合わせて建てられた工場の建築にかかわった。
長崎製鉄所のヘンドリック・ハルデス、横須賀製鉄所のルイ・フェリックス・フロラン、富岡製糸所のオーギュスト・バスチャン、鹿児島紡績所のトーマス・ウォートルス、生野鉱山の煉瓦造工場のジュール・レスカスなどがいた。彼らの仕事に触発された大工の棟梁のなかで洋風に見立てた建築をつくるものたちがでてくる。そのような建物を”擬洋風”と呼んでいる。
清水喜助、立石清重、小宮正太郎、市川代治郎などの擬洋風の棟梁たちは、たいてい幕末に宮大工としてスタートしている。腕が立って公共性のある大きな仕事もこなせる棟梁だった。このころの代表的な建物としては開智学校、済世館がある。
政府に招かれた外国人建築家たち
日本政府に招かれて直接ヨーロッパから来日した建築家たちがいた。ジョヴァンニ・カペレッティ、ウィリアム・アンダーソン、シャストル・ド・ボアンヴィル、ジョサイア・コンドルといった建築家たちである。彼らは現存する日本近代の歴史的な建築物を手がけている。
建築物を設計しただけでなく、日本の建築家の育成にもおおきな功績を残した。とくにジョサイア・コンドルの功績は大きい。彼が伝えたのは、建築論や歴史、構造など今日の建築学の体系をすべて含んだものといえた。また、コンドルは建築家としても、鹿鳴館、岩崎家深川別邸、岩崎久弥邸などの作品を残している。
日本人建築家の誕生
この頃、日本人としての最初期の建築家たちが生まれる。当時のヨーロッパの建築は、イギリス、フランス、ドイツが主流であり、日本人建築家もこの三つの流派に分けることができる。
このうちイギリス派はコンドルの教え子たちであり、日銀本店を設計した辰野金吾らがいる。彼らは誕生したばかりの建築家という職業の自立をめざし、三菱や住友といった財閥や民間の建設会社の中に建築家という職能を植えつけた。
ドイツ派には横浜正金銀行、国会議事堂などを設計した妻木頼黄、フランス派には赤坂離宮の片山東熊などがいる。
彼ら、第一世代の建築家たちは創造よりも学習に重点が置かれていた。しかし決して受身の姿勢ではなく主体性もあったと藤森は言う。片山は同時代のフランスの流行から離れ、古典に遡行して赤坂離宮をデザインした。
日本人による様式の選択
イギリス、フランス、ドイツは同じヨーロッパでも異なる建築様式を持つ。
ギリシアやローマを起源とする建築様式のうち、どれを取り入れ、どのようにデザインするかということで様式を決めていく。そこには長い歴史のなかで積み重ねられた伝統がある。
ヨーロッパにおいて近代建築以前に折衷主義というものがあった。さまざまな様式のなかから選択した様式に、自分の好みを加味して作品を仕上げる姿勢のことをいう。日本の建築家たちがおこなったのもこの姿勢に他ならない。しかし、ヨーロッパの建築家と異なる点があった。
藤森は次のように書く、日本の建築家には「様式が背負う過去の時代精神や宗教的感情や文化の機微を理解するのは不可能だった」と。
さらに、「教えられればわかること」として、次のふたつのことをあげている。
ひとつは「用途と様式の関係」。たとえば大学は中世の修道院がルーツだから中世のゴシックがふさわしい、宮殿はフランスが本場だからフランス様式にする、というようなことだ。もうひとつは「様式のもたらす視覚的な印象」。たとえばギリシア神殿に由来しオーダーに則って作られるクラシック系は威風、秩序、永遠、知性、といった要素の演出に向いている、ルネッサンスよりバロックの方が威風に長けているといったことだ。
第一世代の建築家はこの「用途と様式」、「様式が見る人に与える視覚的印象」のふたつを頼りに様式を選んだ。第一世代は明治の国家をパトロンとしたのだから、記念碑性の演出を求めることになり、同じ効果をもとめて選択される様式は同じ傾向に流れることになる。彼らは「国家と時代を建築で飾るのが自分たちの任務と覚悟していた」と藤森は書く。つまり、個性や創造性といったものを発揮する前に、国家のためにもっとも相応しいものを選択しようとした。そこには近代的な自我が確立される前の時代精神を感じることができる。