建築家ロバート・ヴェンチューリ
建築家としても著名なロバート・ヴェンチューリの著書。ヴェンチューリは基本的に近代主義建築に批判的なスタンスに立つ。
ヴェンチューリには『建築の多様性と対立性』という有名な著書がある。『建築の多様性と対立性』では機能を重視し均一性を好む近代建築に対し、多様性と対立性に着目した。本書では近代建築に対する視点として、ラスベガスをとりあげる。
近代建築に対する批判とラスベガス
ヴェンチューリが批判の対象とする近代建築とはどのようなものか。彼は次のように書いている。
「初期の近代建築家は既成のありふれた工業のヴォキャブラリーを、ほとんどそのまま転用した」「ル・コルビュジエは穀物用エレベータや蒸気船を好んだ。バウハウスの校舎は工場のように見えた。ミースはアメリカの鉄骨造の工場のディテールを洗練し、コンクリート造の建物に適用した」
近代建築はたしかに工業からの強い影響を受けている。工業技術が進歩していくように、建築も進歩していくべきと考えたのが近代主義建築家たちだった。
建築は工業製品同様の機能至上主義のもと、装飾を否定するようになった。
近代建築を批判するために、『建築の多様性と対立性』ではおもに古典主義建築の建物を参照して書かれていた。本書では、それがラスベガス、とくに看板や高速道路からの見えかたについての考察になる。
ラスベガスをどのようにとらえるか
ヴェンチューリはラスベガスのことを「新しい空間秩序」であるとし、それが現実に存在している以上、理解する必要があると考えている。
そこでは次のように書かれる。
ラスベガスは「自動車および高速道路と建築のコミュニケーションに関連した新しい空間秩序なのであり、そこでは純粋な形態よりは多様なメディアが問題とされる」と。
その上で、新しい空間秩序、形態、空間を理解するためにはふたつの方法があるとする。
ひとつめは「古いもの、異なったものと比較する」という方法である。たとえば、ラスベガスとヨーロッパの都市とを比較するといったことである。
ラスベガスの看板を参考にしながら、「凱旋門は、広告板の原型である」と書いている。
それは、「凱旋門は、情報を伝える広告板としての機能を持つとともに、道標として、複雑な街並みに行進用の道を通す役目も果たしている」からだ。
またもうひとつの方法として、慎重に描写し、分析し、あるがままに把握することだとする。
ヴェンチューリが『建築の多様性と対立性』でおこなったことは「古いもの、異なったものと比較する」という手法で建築を評価しなおすということだった。
そして『ラスベガス』では、いまあるものを「慎重に描写し、分析し、あるがままに把握」しようとしている。
ラスベガスから見えてくるもの
ラスベガスの観察によって、ふたつのものが見えてくる。それは”あひる”と”装飾された小屋”のふたつである。
”あひる”とは、あひるの形をした巨大な広告用のオブジェから名付けられたもので、それは全体を覆っている象徴的な形態のことを差す。
”装飾された小屋”とは、「空間と構造のシステムがプログラム上の要請に無理なく従い、しかも装飾がそれ自身他のものと無関係にとり付けられている」。
要するに、”あひる”とは象徴そのもののことであり、”装飾された小屋”とは象徴で装飾された建物のことである。
このふたつのうち、両方の正当性を認めながらも、本書では後者を支持する。
近代主義建築批判の本論
近代建築批判の理由として、以下のように書く。
「近代建築が折衷主義を放棄した時、近代建築は象徴主義も消去してしまった」「近代建築は、空間、構造、平面上の純粋な建築的要素を執拗に分節化することに没頭した挙句、その表現は空虚でつまらなく、無責任でさえある無味乾燥な表現主義になってしまった。」
ここでは近代建築が装飾を排したことで、どのようなものになっていったかについて書かれている。
「近代建築は、後方にあったものを前方に持ち出してきた。彼らは自分たちのヴォキャブラリーを創造するために、小屋の格好の象徴化を図りながら、一方実際に自分たちがしていることを理論上は否定した。」
”装飾された小屋”から装飾を排除したことにより、「小屋の格好の象徴化」がはじまる。
つまりは、近代建築は明白な象徴を用いることを拒否しながら、じつは建物全体をひとつの大きな装飾と化してしまっているというのだ。
ここに「近代建築=全体が装飾」という図式が成り立つ。
”あひる”は象徴そのものを意味し、また装飾とは象徴のことでもある。
つまり、「近代建築=全体が装飾=”あひる”」という事実に気づかぬまま、近代建築は”あひる”を批判してきたのだと主張する。
近代主義の不合理な合理主義
近代建築が装飾を否定したのは機能を重視したからであった。つまり機能的ではないという理由で象徴的な装飾は必要ではないとしたのである。しかしその機能を重視するという前提がそもそも疑わしいということを本書では指摘している。
「近代建築の象徴主義は、たいてい技術的、機能的なものである。しかし、それらの機能的要素が象徴として作用しているときは、それらは機能的には作用していないことがほとんどである。」
たとえば、「私的な機能を必要とするところに流れるような空間を作ったり、西部の荒涼とした場所でガラスのカーテン・ウォール」を作ったりする。
また「コンクリートで木造骨組に似せたものを作る」といった合理的ではないことをする。
本書では、近代建築の機能主義とはこのような形だけの機能主義に他ならないとし、結果として矛盾したものになっていると批判している。
「最近の近代建築は、形態を拒否しながら形態主義になびき、装飾を忌避しながら表現主義に走り、象徴を排しながら空間を崇めている。混乱とアイロニーとが、この不愉快なほど多様で矛盾をはらんだ状況の結果として生じている」
近代主義のもとで機能と技術を重視した建築は、しかし結果的にもっとも望まない方向へ進んでしまった。
「近代建築家が当然のように建物に付加された装飾を廃棄した際、彼らは建物自体を装飾として化してしまったのだ。象徴や装飾の代わりに空間や分節化にかかずり合い、建物全体を一羽のあひるに変形してしまったのだ。」
近代建築を批判する理由
批判の内容を冷静に見ていくと、装飾や象徴を否定しながらも全体として装飾となっているという、矛盾点を指摘している。
しかし、ヴェンチューリ自身はそういった矛盾や混乱やアイロニーには、むしろ肯定的な立場にいたのではなかったか。
『建築の多様性と対立性』では、コルビュジエの作品も評価している。近代建築そのものすべてを否定しているわけではない。また矛盾していることが悪いと言っているわけでもない。否定しているのは、ある種の姿勢と主義についてだ。
その姿勢と主義とは、つまるところ「建築単体で完結させようとする姿勢」だ。すなわち、それが本書では”あひる”と呼称されるものなのである。そういった建物だけで完結した建築はいまや「的はずれ」であると本書は主張する。
その理由のひとつとして自動車や高速道路といった移動手段の向上によるところがある。そのような新しい都市の代表としてラスベガスが存在する。
「ラスベガスの都市は中世都市の空間のように囲まれてもいないし抑制されてもいない」
「典型的なゴシック伽藍の発展の過程は、様式と象徴の変遷を通して、何十年にもわたって跡づけられるが、それと同様の発展の過程が、現代建築においては稀なことだが、ラスベガスの商業施設の内にも見てとれる」
本書では、ラスベガスに近代建築から、その先にさらに進化していく建築の姿を見るのである。
[…] ぬまま、近代建築は”あひる”を批判してきたのだと主張する。”引用元:建築書のレビューサイト「建築と活字」、「R.ヴェンチューリ『ラスヴェガス』」よりhttps://drowbypen.com/wp01/vent2/ […]