人工都市と自然都市
著者のクリストファー・アレグザンダーの代表的な論文である。1965年に発表された。ながらく邦訳が絶版状態であったが、現在では出版されている。
本書では計画的につくられる人工都市と、計画とは無縁の自然都市との違いについて書かれている。さらにその人工都市の計画というものが、人間の思考方法によるものであるとも主張する。
都市計画で既存の都市を参考とするとき、その都市の形成過程でどのようなことがあったか、なぜそのような都市になったのかを考える。その際、都合よく解釈してしまう傾向にある。アレグザンダーは以下のように書く。
「現代のデザイナーの多くは昔の都市にそなわっていて現代の都市概念からは把握できない抽象的な秩序を研究せずに、事象的、具体的なものを求めようとしている」
その抽象的な秩序とはどのようなものであるか。アレグザンダーはそれを”セミラチス構造”という名称で呼ぶ。
「自然の都市はセミラチス構造であると私は考えているが、現在は都市をツリー構造として計画している」
セミラチス構造とツリー構造
セミラチス構造の、セミ・ラティス(semi-lattice)とはなにか。
もともとは数学の集合論で用いられる用語であり、ラティスは格子を意味する。このときの格子とは碁盤の目のように水平垂直に組んだものではなく、斜めにクロスするように組んだもののことを指す。
ツリー構造とは、文字通りツリー(樹木)のように枝分かれしていくイメージである。
セミラチス構造もツリー構造も、「どちらもセット(set)の構成の仕方に対する呼名」であるといい、セットとは「互いに何んらかの関係があるエレメントの集まり」のことを言う。
すなわち、「人々、芝生、自動車、レンガ、微粒子、住宅、庭、水道管、その内を流れる水滴など」がエレメントであり、エレメントからつくられるものがセットである。このセットのありかたとして、セミラチス構造とツリー構造というものがある。
セミラチスは「<セットが集まってセミラチスを形成するとき、この集まりに属する二つの重なり合うセットをとれば、両方に共通なエレメントのセットもこの集まりに属している>」と説明される。
一方、ツリーは「<セットが集まってツリーを形成するとき、この集まりに属する任意の二つの組合せをとれば、一方が他方に完全に含まれるか、全く無関係かのどちらかである>」と説明される。
ツリーは枝分かれしていった結果としてのエレメントをもつので、エレメントには単一の線が引かれる。セミラチスを構成するエレメントにはクロスするように複数の線が引かれる。
「本来セミラチスがツリーよりもはるかに複雑で安定した構造になる」
セミラチス構造とツリー構造は、しかし明確に異なるわけではない。このことはアレグザンダー自身も認識しており、次のように書いている。
「この論文ではツリーもセミラチスになるという事実に深入りするのではなく、重なり合ったユニットを含み、即ちツリーにはならない一般的なセミラチスとツリーの間の相違について調べてみたい。」
都市計画としてのツリー構造
アレグザンダーはこれまでの都市計画がいかにツリー構造的になされてきたかを例をあげて検証する。
例としてあげられるのは次のものだ。
1.コロンビア、マリーランド、設計:コミユニティー・リサーチ・デベロップメント社。
これは「五つのクラスターから構成される近隣住区が郷を形成し、交通幹線によってニュータウンに結ばれる。この組織はツリーである」と記述されている。
2.グリーンベルト、マリーランド、設計:クラレンス・スタイン
「この田園都市はスーパーブロックに細分されていて、スーパーブロックはそれぞれ学校、公園、パーキング・ロットの周囲に建てられた住宅などから構成されている。この組織はツリーである。」
他にも、丹下健三の東京、ル・コルビュジェのチャンディガールなど、有名な都市計画を検証する。
「人工の都市を組立てているユニットはいずれもツリー構造となるようにつくられている」とアレグザンダーは語る。
セミラチス構造の優位性
人工都市はツリー構造として計画される。しかし実際の都市はセミラチス構造なのだ。これが事実としてある事柄だけでなく、ふたつの構造のうちどちらが優れているかという点もアレグザンダーは強調する。
「ツリーと比較してセミラチスは複雑な織物の構造である。それは命あるもの、即ち偉大な絵画、交響曲の構造である。セミラチス構造は重複性、不確定性、多様性などの性質をもち、ツリー構造のように、アーティキュレイト、カテゴライズされていないが、秩序をそなえていて、ツリー構造と比較しても、混乱していることはけっしてないと強調しておこう。」
「現実の都市はセミラチスであり、セミラチスとしなければならない。」
「我々が今までこれを具体的に表現できなかったという事実は重要な意味をもつ。」
それではなぜこれまでセミラチス構造として計画できなかったのか。その原因をアレグザンダーは”思考の根本”に見る。
ツリー状思考
ツリー構造は枝分かれしていくイメージだ。
「ツリーは思考法として秩序だっていて美しく、複雑な全体をユニットに分割するという単純で明快な方法をもたらしてくれる」
複雑なものを複雑なまま認識できないときに、分割し整理する必要がある。そのときの整理された秩序は論理に裏打ちされることで複雑さが軽減される。しかし、それは理解、認識、思考などには役立つが、実際の都市を把握しようとしたときには現状とは乖離してしまう場合がある。なぜなら自然に出来上がった都市の構造はその複雑さこそが現状を表しているからだ。
「多くのデザイナーが都市をツリーとして考えるのはなぜだろうか」とアレグザンダーが考える時、その答えは、「思考法の習慣、多分人間の頭の働きそのものの落し穴だろうが、この落し穴にかかっているのが原因だろう」とする。
「直感的に把握できる能力には限界があり、一度の思考では複雑なセミラチスを理解できない」「ツリーは頭に描きやすく扱いやすい。セミラチスは描きにくく、従って扱いにくい」「複雑な問題をできるだけ簡単にしてしまわなければならない人間の思考能力に原因がある」
アレグザンダーは都市計画のツリー構造の理由を、人間の思考能力によるものだとしている。
セミラチス構造都市の計画とは
セミラチス構造はツリー構造とは異なり、複雑さをもつ。この複雑さを構成するのは、重複や曖昧さである。エレメントはあるひとつの目的のためだけに存在するわけではない。使用用途は複数あったり、場合によって異なったりもする。明確な因果関係や等号だけで整理できるものではない。
そのような自然の都市を計画することは可能なのだろうか。たとえば、このエレメントはなんとなくここにつくっておこう、同じものが重複してあるが、まあここに置いておこう、利用方法は特にないが使う人に任せるとしてこうしておこう等々、このようなものが計画と呼べるのだろうか。
アレグザンダーは次のように書いている。
「そろそろあなたはツリーではなくセミラチスである都市が一体どのようなものになるのかと思っているでしょう。残念ながら私はまだプランやスケッチをおみせすることができません」
「ツリーは複雑な問題を考えるためには最も安易な思考手段である。しかし都市はツリーではありません」
都市はツリーではない、それはその通りなのだ。そして、複雑な都市を複雑なまま計画することもまた不可能なのだ。それは人間の思考方法がそのようにできておらず、計画というものがそのような性質のものではないからだ。
都市「計画」はツリーでしかない
実際の都市を振り返って観察してみれば、たしかにセミラチスなものかもしれない。それは人々がひとりひとりの個性をもち、異なる思考のもとで異なる動きをするからだ。
ある目的のためにつくられたものも時間がたてば別の目的で使われることもある。計画の時点で考えられていたとおりの使われかたをするとは限らない。それがセミラチス構造をもたらすことになる。
それではいろいろな可能性を残したまま、つまりは曖昧な部分を残したまま、都市を計画すればいいのだろうか。しかし計画として予定したものはツリー構造のなかに組み込まれてしまう。セミラチスとはそのような予定から外れたものによってしか生み出されない。
つまり、計画の時点では全ての都市はツリー構造であり、その後のエレメントの追加によって結果的にセミラチス構造になると考えるべきだ。未来への思考は常にツリー構造であり、過去を振り返れば常にセミラチス構造となる。