近代建築の巨匠グロピウスの講演集
本書は1930年代から60年代にかけての、ヴァルター・グロピウスの講演と評論をまとめたものだ。グロピウスは1919年にベルリンで生まれた。バウハウスという教育機関をつくり、建築家の養成につとめた。
同時にバウハウスの校舎も設計して、それが彼の建築家としての代表作のひとつでもある。その後、1937年からアメリカに渡り、ハーバード大学で教鞭をとる。
本書を読むと、建築家としてよりも教育者としてのグロピウスが印象に残る。いかに教育が大切なものか、とくに芸術における教育の重要性を強調している。
芸術における教育とは、芸術家を育成するということと同時に、大衆に対して芸術を理解する力をつけるということでもある。
芸術と文化がなくては…
芸術のもたらすものをグロピウスは高く評価している。
「科学の進歩は物質的な豊かさと富をもたらしましたが、文明そのものを新しい形として表現するほどの成熟度を現代文明に与えることはまだできないでいます。われわれの感情生活は、一日八時間労働で物質的な生産をやっているだけでは、やはり満たされないのであります」
「過去のいかなる社会も、芸術家の参加なくして、その意義ある表現を見出したことはないのです。文化の問題は知的な操作や政治的活動だけでは解決できないのであります」
つまり、人間はただ生きているだけでは満たされることはなく、芸術を含んだ文化のなかで生きる存在であるということだ。文化的な社会のためには創造力のある芸術家だけではなく、理解のある大衆も必要であると主張する。
「美的な創造性は、秘伝をつかんだ少数者の特権」ではなく、すべての人の主要な任務であると言い、大衆の習慣にしっかりと根ざしていなければならない。そうしてはじめて、その文化の象徴ともいえる「多様性のなかの統一」を成すことが可能になる。
市民への教育の重要性
グロピウスが本書で繰り返し強調するのは、市民への芸術教育である。その理由をグロピウスは次のよう語る。
「二十世紀の建築家や芸術家がまったく新しい種類の客やパトロンと顔を合わせなければならないという事実をかくすことはできません。すなわち、彼らはまったく平均的な市民や代表者であり、その人物、意見、影響力は、過去の権威ある支配者に比べると、不安定で確定しがたい人びとなのです」
かつて芸術家は為政者や貴族や宗教的な指導者などの依頼のもとで作品を制作してきた。いまは時代がそのような状況ではなくなっている。
誰か特定の権力者ではなく、「平均的な市民」に作品の評価を委ねるしかなくなった。
「精神を鋭敏にし啓発する」、「感受性を豊かにし、目や手を導く力に」する、このような教育はこれまでは芸術家のためのものだった。しかし、それをすべての人に与える必要があるとグロピウスは言う。
それができなければ、「芸術家と一般人の間の溝は埋められない」。
「普通の若者に、勉学の初めから、客観的な原理、すなわち自然の法則と人間の心理にもとづいた視覚の訓練を与える」。そうすることで、芸術家も市民も同じように普遍的な妥当性という前提を共有できる。そのときはじめて、製作者の創造性が使用者の応答を見出すと言う。
市民は文化の裁決者
グロピウスは本書のなかで、市民や大衆への教育の重要性を繰り返し主張する。繰り返し主張するのは、それが実現できていないからだ。教育がいまだ未熟であり、その結果としてあらわれている現在の社会を憂慮している。
「われわれが市民を文化の裁決者という役割にふさわしく教育していなかった」
「市民はしまりのない人間となり、むやみと商業的利益を追い求め、時たま社会の熱望によって制約されるにすぎない存在となって、こうした教育の無視に仕返ししている」
このような状況は建築家にとっての障害となる。
「世界中の工業国の一般市民の特徴となってしまった視覚的な無学と無力は、疑いもなく現代の建築家にとっておそるべき障害であり、これはただ忍耐強い、長期にわたる教育の影響力によってのみ克服できるものであります。評価の基準を確立することは、何世代にもわたる長い努力からゆっくりと生じてくるものなのでありまして、そうした努力が人びとを造形の意味やその象徴的な力に感動しやすく敏感にしてきたのであります」
市民が都市の問題を解決しようという気になっていない。建築について自分のこととして考えることをしない。このような状況にあるにもかかわらず、建築家は自身の仕事の評価をその市民に委ねるしかない。
教育が軽く見られている
グロピウスが70歳の誕生日をむかえたとき、アメリカの雑誌「タイム誌」で、その経歴をまとめた記事が掲載された。そこには、グロピウスはアメリカにやってきた後は、「教えることだけで満足していた」と書かれていたという。
これに対して、「あたかも、教えることは、それ自体、開業している建築家の仕事とくらべれば二流の職業だといわんばかり」だと、グロピウスは怒りを露にする。
「この国では教師という職業は、行動と現実の世界で自分の地歩を守ることのできない夢想家のための一種の隠れ場とみなされている」と辛らつに語っている。
環境を整えるということ
芸術を正しく評価するためには専門的な教育を必要とするものだという考えが浸透している。専門家の評価こそが正しいという認識だ。
一般的な市民は「芸術」は高尚なものであり、自分とはかけ離れた世界のことだと感じている。自信を持って芸術を評価できる「一般的な市民」がどれだけいるだろうか。教育が不足しているというグロピウスの主張は正しいかもしれない。
芸術、文化の裁決者が権力をもっていた時代ならば、その存在に「教育が必要だ」などと主張することは許されないだろう。近代になり、大衆や市民が権利をもったときにはじめて主張可能な意見だといえる。
不安定で確定しがたい近代以降の芸術評価のもとで生きてきたグロピウスとって、創造力をどのように発揮するかということと同じ位に、正当な評価をもたらす地盤をどのように固めるかということも重要だったのではないだろうか。