日本とも馴染みの深い建築家
本書の著者、ブルーノ・タウトは1880年に生まれた。幼少から青年期にかけてはドイツで過ごしているが、その後、旧ソ連に渡る。
ナチスからはソビエト側に近しい人物とみなされ、ドイツ国内での活動に対し妨害を受ける。そのためタウトは日本や旧ソ連など外国で過ごした。日本滞在中には桂離宮についての著作を書き、世界にその魅力を伝えた。
本書も日本滞在中に執筆したものだ。本書執筆中の心境についての参考として、巻末に当時の日記の抜粋が収められている。
そこには「建築の本質を究明しようとする<大著>に着手した」、「私の犯した誤謬をも含めて、一般に建築における誤謬を確認したもの」とあり、意気込みの強さが感じられる。
タウトの建築作品として、もっとも有名なものは「ガラスの家」であろう。これはケルンの工作連盟の展覧会のために建てられた、20世紀を代表する建築作品として知られる。他にも世界遺産に登録される建築作品がいくつもある。
建築家としても世界的に評価の高いタウトが、その晩年に近い1930年代に書いたのが本書だ。
最重要キーワード、釣合い
タウトが建築においてもっとも重要視するのは釣合いだ。
「建築家の仕事としては、技術的構築物の基本的前提である自然的な釣合いを示すことである」
この釣合いは建築にのみあるわけではない。
タウトは「釣合いは音楽、文学、絵画、彫刻、工芸等の芸術作品を構成している諸部分のあいだにだけ成立するのではない」と言う。
芸術全般にだけでなく、自然のなかにも釣合いは存在し、「自然はおおむね美しい釣合いでもって成立している」と書く。
また人間関係における結婚、家族、学校、官庁、国家も釣合いであるという。
タウトは人間と自然との関係についても書いている。人間のもつよい部分として、自然を愛し、自然から多くのものを創り出すという点をあげている。
またタウトはこのときの自然を「偉大な素材」であるとし、人間を自然から芸術やあらゆる文物を生み出す「媒体」であるとしている。つまり、人間が自ら創造するのではなく、素材である自然を生かして創造しているのだ。
自然に含まれる要素はさまざまなものがあり、「寸法や量ばかりでなく、色や光、音や香りをも備えている」とある。人間は自然からこれらを感受することが可能である。さらに人間のもつもっとも重要な感覚として、自然のなかにある「関係すなわち釣合いを感得する感覚器官」というものをタウトはあげている。
建築は釣合いの芸術
「建築とは何か」という問いに、タウトは「釣合いの芸術」であると答える。その上で、建築作品の質は芸術家によってのみ形成されるわけではないともいう。
個々の芸術家の発明の才や創造力や偉大な構想といったものよりも、継続的なつながりのなかに形成される。
それは近代建築家たちが軽視してきた、様式や形式の世界、数世紀にわたって継がれてきた定型という連続的な仕事によって成就されるものである。
建築は釣合いであり、また自然のもつ美しい釣合いを素材とするとき、まったく新しいものが次々と生まれるのは本来はあり得ない。自然がそうであるように芸術も建築も連綿と続いていくはずだ。
そのうえで、タウトは「現代の建築観」として「同一の物を同一の形式で作らぬことを主旨としている」点を批判する。このような主旨によって生み出されたものが、よい芸術、よい建築とは到底言えないからである。
型と公式化
「型」というものについて書かれる。
タウトはこの型についてまずそれが判別可能なものとなるために必要なものであると語る。
子どもでも各都市、たとえばベルリン、モスクワ、東京、ロサンゼルスなどの建築物をみて「これは劇場である」「あれは学校である」と指摘できるのはこの型のおかげなのである。
そしてこの、「型」はやがて「定型」となる。しかし本来は型とは凝固した形ではなく、そのなかに変容と発展との能力をもつものであるとタウトはいう。
「有用性だけを目あてにする型は、いくら改善されても、しょせんは血の通わない因習の域を出ない」
ではどうあるべきなのか。タウトはここで「発展し得る<型>」というものを提案している。様式や定型をそのまま使用するのではなく、常に釣合いを意識してデザインをおこなうという姿勢が必要になる。
「ベラルーヘの比例図形法」も「コルビュジエの方法」も「オステンドルフの理論」も「ウィトルウィウスの理論」も、タウトに言わせれば「網の中に捕らわれた魚であり、もはや水中で活発に泳ぐ魚ではない」となる。
技術、構造、機能
釣合いは技術を伴わなくても建築になり得る。これは未開人の小屋がそのいい例である。しかし釣合いを欠く技術は、建築にはなり得ない。
機能について説明する際に、タウトは桂離宮を例に出す。
「桂離宮は、<機能のすぐれているものは、その外観もまたすぐれている>という命題の真なることを最もよく実証するものである」という。
たとえ畳、障子、茶の湯などの文化がことごとく廃してしまっても、また現在の技術がすべて死滅し機能が滅び去っても、桂離宮はこの建物の存続するかぎり、その美を永遠に語り続けるであろう、と書く。それはまさにパルテノンやゴシックの大聖堂と同じである。機能は建築物が成立すると同時に釣合いに関係する。しかし機能は死滅しても、釣合いは機能なしに存続し得るという。
古い建築物の美しさはここにある。現在からみれば不要な機能であっても、それが意味を持ち美しさをつくりだすのに役に立っているのである。では、その釣合いをなくしたときにはどうなるのだろうか。たとえば、機能だけをとって考えてみれば、機能を形成するさまざまな要素はしょせんは一時的なものに過ぎない。時代が変われば必要となる機能も変化する。
ふたたび、釣合いについて
すぐれた建築はどのようにできるのだろうか。タウトはそのキャリアの最後に本書を執筆するに当たって、建築の本質的な疑問に答えようとする。
まず現代建築もつ相対立する二つの<方法>を述べる。そのどちらにもタウトは否定的である。まず、ひとつめは、古くからある建築様式を現代の課題にも適用しようとする方法。もうひとつは、このような古い様式をすべて廃棄しようとする方法である。古い形式には、これを創造した時代のさまざまな条件のもとに確立された”美の規範”を備えている。これを現在の新しい条件にそぐうように改変したり、順応させようとすれば美の規範はことごとく壊れてしまう。
過去の形式を現在のやりかたでその機能にそったものとして新たにつくったところで、過去のものと同様の美しさを得ることはできない。
「そして古典的なものの代わりに、感傷(センチメンタリズム)とロマン主義が生じるのである。」とタウトはいう。
さらに、こういったものは時間がたてば無趣味きわまるものになるであろうとも書く。
タウトは言う、「現代は、建築に関して、あたかも<無>の前に立つような感がある。」と。
受け継がれてきた形式を生かし、変化を受け入れ、釣合いを意識してデザインする。そして”釣合いとは何か”というとき、それは-部分と全体とのあいだのすぐれた関係、すなわち均整にほかならない、とタウトはまとめる。これは目新しい結論ではないかもしれない。前述のように、アルベルティやカーンやヴェンチューリと同じ結論だ。
建築について深く考察した結果、すぐれた建築家たちは同じ結論に達する。これこそが建築や芸術が、独自の創造性によって生みだされるというよりも、継承されてきた共通する核のようなものが存在し、それによって生みだされる証しではないだろうか。
【関連】
建築書のブックレビューの一覧
レイナー・バンハム 『第一機械時代の理論とデザイン』
R・ヴェンチューリ 『建築の多様性と対立性』
L・B・アルベルティ 『建築論』1/2