◆ル・コルビュジエ 『ル・コルビュジエ 図面集 vol.2 住宅Ⅱ』

サヴォア邸を含む六作品を収録

本書はル・コルビュジエの図面集シリーズのなかの一冊である。『住宅Ⅰ』につづく、『住宅Ⅱ』である。

収められているのは全部で六作品であり、そのなかにはコルビュジエの最も有名な作品のひとつである、サヴォア邸もある。前の『住宅Ⅰ』と同様に、多くの図面を載せてはいるが作品数が多いので、ひとつあたりの図面の枚数は少なくなっている。また解説の文章は作品ごとにそれぞれ別の人物によって書かれている。

図面は基礎設計時点のものや構想の初期段階のものなどもあり、変遷が見られるのもおもしろい。

コルビュジエと住宅

『住宅Ⅱ』と題された本書に収められている作品は以下のものである。
・レマン湖の小さな家母の家(1923年)
・サヴォア邸(1928年)
・ナンジェセール・エ・コリ通りの集合住宅(1931年)
・クルチェット博士邸(1949年)
・ジャウル邸(1951年)
・マノラマ・サラバイ夫人邸(1951年)

前巻である『住宅Ⅰ』では、1926年から1929年までの住宅三作品が収められていた。
本書では母の家だけはそれ以前のものだが、他は『住宅Ⅰ』につづいて、おおよそ時系列で並んでいることになる。

レマン湖の小さな家

母の家とも呼ばれるこの作品は文字通り、コルビュジエが両親のために設計したものである。
コルビュジエはパリからミラノまで、理想とする土地を探していくなかでレマン湖のほとりの風景に心を奪われる。

このとき、「私はある家の図面をポケットに入れていました。敷地の決まる前に図面?そして図面に合う敷地を探す?その通りです」、とコルビュジエが語るように、すでに家の図面を書いており、それにあう土地を探していたようだ。

レマン湖畔の「小さな家」湖からの外観 (http://db.10plus1.jpより)

レマン湖畔の「小さな家」湖からの外観
(http://db.10plus1.jpより)

コルビュジエは湖と周辺の葡萄畑の風景に魅了された。
コルビュジエが描いた周辺のスケッチも残されているが、そこには存在していたはずのホテルやスパといったものは一切描かれていない。

「ル・コルビュジエにとって、風光明媚なこの地方の「澄み切った」景色だけが見るに値するものであった」と本書の解説には書かれている。

まず先に図面があり、それにあう敷地を探したというが、この言葉を額面どおりに受けとるわけにもいかないだろう。
なぜなら、母の家にはその敷地を見てから設計されたとしか思えない部分があるからだ。

なかでも、もっとも敷地を意識したものとして横長窓をあげることができる。
この横長の窓は当時、建築議論の材料となるほどの意外なものだった。

窓は縦長であるべきだと主張したのはオーギュスト・ペレである。
「ペレは、フランス風の縦長の窓のみが部屋に「完全なる」空間を与えることができると考えていた。」と解説にある。

ペレはコルビュジエよりも前の世代に属する建築家であり、コンクリートを使用した作品によって近代建築へ大きな影響を与えた。
それだけでなく、ペレの教え子のひとりが他でもないル・コルビュジエなのである。

ペレが縦長の窓を評価したのは、それが景色をもっとも美しく見せることができるからだ。
縦長に切り取られたことで、手前の景色、中ほどにある景色、奥にある景色と奥行きをもって風景を眺めることができる。
たしかに、ただの平凡な風景も縦長のフレームに収まることで、見る側の意識に変化がおきるということもあるだろう。

しかし湖畔の美しい景色を目のまえにしたときに、可能なかぎり視界をさえぎるものをなくしたいという気持ちも十分理解できる。

自分の師匠にあたるペレの主張には反することになるが、その風景に魅了されたからこそできた横長窓ではなかっただろうか。
はじめから図面を持っていたとしても、レマン湖畔の風景がその設計に与えた影響がまったくなかったということはないだろう。

敷地からの制約を受けず、思いのままに設計をし、美しい風景のもとでその図面にもとづいた家を建て、両親に贈る、それはコルビュジエにとっても、非常に幸福な時期だったのではないだろうか。

本書に収められている他の作品では、その制作過程においてさまざまな障害がおこり、設計の見直しをしいられているのがわかる。それは20世紀の名建築といわれるサヴォア邸においても言えることなのである。

サヴォア邸 (http://crownarchitect.blog121.fc2.com/より)

サヴォア邸
(http://crownarchitect.blog121.fc2.com/より)

コルビュジエが自分の住宅を買う?

本書には興味深い物件が載っている。それはナンジェセール・エ・コリ通りの集合住宅の解説にあるものだ。この集合住宅の設計は開発業者からの依頼ではじまる。

ナンジェセール・エ・コリ通りの集合住宅 (http://www.fondationlecorbusier.fr)

ナンジェセール・エ・コリ通りの集合住宅
(http://www.fondationlecorbusier.fr)

やはりさまざまな障害にみまわれ、スムーズに進むことはない。法律を遵守するために最初の案を修正したり、といったことがおきる。

クライアントが開発業者であるために、かなり複雑な契約が交わされていたようだ。たとえば分譲と賃貸の客を集めることが条件に入れられており、コルビュジエは友人や知人に連絡し、営業活動もおこなっている。

要するにマンションの設計の仕事がきたが、その仕事をする条件として、部屋を指定された分だけ販売し、また賃貸での住人も確保しなければならなかったということだ。

そのような経緯のなかで、コルビュジエはこの集合住宅の八階部分を自宅として購入している。ここにも、いまとなっては判然としない複雑な事情があったようで、八階と九階、さらにその上の屋根部分を自費で工事することになったようだ。

解説文によると、コルビュジエが自宅購入のために払った費用は11万フランであった。しかも、この額は一括で支払われることはなく、まずは一部だけを支払い、残りは分割で支払う契約になったようだ。
コルビュジエは1934年からここに住みはじめ、この部屋を終生の住処とした。

”連戦連敗”でコルビュジエに資産はあったのか

コルビュジエは仕事がなかった時代から自身で都市計画を考案するなど、建築活動をおこなっていた。
また設計競技にも積極的に参戦した。結果は自分で”連戦連敗”と表現するほど勝てていない。
それはコルビュジエの作品の質のせいではなく、当時の状況が近代建築を受け入れるようなものではなかったためだ。国際連盟ビルのコンペもそのひとつだ。

コルビュジエ設計案の国際連盟ビル (http://www.fondationlecorbusier.frより)

コルビュジエ設計案の国際連盟ビル
(http://www.fondationlecorbusier.frより)

友人でもあり、近代建築の教科書ともいえる本を書いているジークフリード・ギーディオンは、コルビュジエについて次のように書いている「ル・コルビュジエの生涯に流れている悲劇的な調べは、妨害の調べ」であったと。

既存の”アカデミー”とよばれる保守的な層が、新たな価値観を提示しはじめていた近代建築を排除しようとするのは当然のことであるともいえる。
コルビュジエが活動していた時期、いまだ大きな影響力をもっていた”アカデミー”陣営からの妨害により、さまざまな不都合があったと考えられる。大型の設計競技をいくつも勝ち抜き、多額の設計料を手にしていた建築家、というわけではなかっただろう。

作品の背後にあるドラマ

本書には図面とともに、その作品の詳細な情報が書かれている。
さまざまな文献を参照し、関連する情報が作品ごとに集められているので、それを図面とともに読むと非常に興味深い。

とくに、あらわれる数字や手紙の文章などを読んでいると、いままで単に完成作品としてしか見ていなかった建築物の背後にドラマが見えてくる。
当然のことだが、近代建築の巨匠のひとりであるル・コルビュジエであっても、さまざまな制約のもとで試行錯誤しながら設計をしていたことがわかる。

建築は建築家だけでできるものではない。依頼主がいて予算があってはじめて実現する。もしもサヴォア夫妻が最初の見積もりを受け入れていたら、いまのかたちでのサヴォア邸はなかったことになる。そのときのサヴォア邸がどのようなものであったかも、本書の図面で見ることができる。

依頼主や予算、法律や経済状況、そういったさまざまな関係のなかで、建築家自身も想像しなかった作品が生まれてくるのであろう。

本書は、建築作品の誕生までの軌跡を図面と文章の両方で楽しむことができる良書であるといえる。また、さまざまな制限のもとでも、後世に残る名作を数多く残した、コルビュジエの偉大さを感じる一冊でもある。