モダニズムの変化を捉える
チャールズ・ジェンクスは1970年代に「ポストモダン建築」という名称を生み出した評論家だ。現代思想でポストモダンという単語を広めたのはフランスの哲学者リオタールだが、彼の著書『ポスト・モダンの条件』が1979年であるのに対し、ジェンクスの『ポスト・モダニズムの建築言語』は1977年であり、こちらのほうが早い。ジェンクスはモダニズム建築の変化に対して敏感だったと言えるだろう。
本書『ル・コルビュジエ』の原書は1973年の出版で、日本語訳は1978年に出ている。内容としては1965年までのル・コルビュジエの活動について書かれている。全部で四章からなり、章ごとにタイトルと、対象となる期間の年が表記されている。
1928年までのコルビュジエ
第一章では1887年から1916年までについて書かれている。1887年はコルビュジエの生まれた年だ。1916年という年は、コルビュジエは既にペレやベーレンスの事務所を辞め、ヨーロッパの旅を終えたあたりの頃、まだ雑誌『レスプリ・ヌーヴォー』(L’esprit Nouveau)を創刊する前だ。この章では、コルビュジエが生まれ育ったラ・ショー・ド・フォンでの、彼の若い頃の話が中心となっている。
第二章では1917年から1928年とあり、ここではコルビュジエの四冊の本に注目している。四冊とは、『建築をめざして』『ユルバニスム』『今日の装飾芸術』『近代絵画』だ。
この頃のコルビュジエのキャリアとしては、1920年に雑誌『レスプリ・ヌーヴォー』(L’esprit Nouveau)を創刊、1922年に従兄弟のピエール・ジャンヌレと共に事務所を開設している。最初の著書である『建築をめざして』を発表したのが1923年。第二章の終わり、1928年というのはコルビュジエがCIAMに参加した年でもある。
建築史としてはモダニズム建築の初期にあたる時期で、古典主義的な建築がいまだ強い力を持っていた。コルビュジエが国際連盟のコンペで敗北したのもこの頃のことだ。
ナチスとフランス
第三章は章題に「反動的な戦争中に」とあり、1928年から1945年までを対象としている。
この頃のコルビュジエはどのような仕事をしていたか。代表作のひとつである、サヴォア邸が1931年の作品だ。
その後、第二次世界大戦が起こるとコルビュジエの経歴にやや暗い影を落とすようになる。
1940年、ナチスドイツはフランスに侵攻し勝利した。フランス国内には敗北を受け入れず、ドイツに対して抗戦を主張する者もいた。しかし、抗戦派は身柄を拘束されたり、亡命したりして、最終的に和平派が政権をとることになる。フランスは厳しい条件を飲んでドイツとの休戦協定を結ぶ。
このときのフランス政府はドイツの「傀儡政権」と揶揄された。フランス政府はヴィシーという都市に首都を移転させた。このことからこの時期の親ドイツ的なフランス政府をヴィシー政権と呼ぶ。
ヴィシー政権は第二次世界大戦の終了とともに消滅した。連合国側がフランスにいたドイツ軍を破ると、かつてドイツに対して抗戦を主張していた者たちがフランス新政府を発足させた。ヴィシー政権は四年ほどの短命に終わった。
戦後のコラボラシオン
第二次世界大戦中にナチスのおこなった行為を考えると、戦後から現在までナチスに対して否定的な評価がなされているのは当然のことであるといえる。同時に、対独協力的な立ち位置にいたものにも同じような評価がついてまわる。
フランス文学の分野でもコラボラシオンと呼ばれる、対ドイツ協力を肯定する論述をしていた著作家たちがいた。彼らは戦時中、ヴィシー政権支持、反ユダヤ主義、ファシズム賛美といった文章を発表していた。戦後、彼らは裁判にかけられ、死刑判決を受けて銃殺刑に処せられたり、減刑されても無期懲役の重い刑を受けたり、あるいは裁判を逃れるために自殺するものもいた。
またヴィシー政権の政府高官たちも裁判にかけられ、多くが死刑判決や終身刑を受けた。つまりヴィシー政権支持とは、ナチスドイツ支持と同様の意味を持っており、戦後は重い犯罪者として扱われたのだ。
但し、ヴィシー政権には、「ドイツとの悲惨な戦争を回避した」として肯定的に見る向きもある。政権発足時にも、フランスの主権を守ったことで国民からの支持も厚かった。対独協力についても、生き残るための「擬態」であったとする考えもあり、現在でも議論が続いている。
戦中のコルビュジエ
コルビュジエは大戦中、ヴィシー政権に近づき仕事をしていた、あるいは仕事をしようとしていた、と一般的に言われている。コルビュジエの経歴には、ヴィシー政権時代に建てられた作品は存在しない。しかしながら、ヴィシー政権に近づいたことからくる印象は決してよいものではないだろう。この時期に作品がなかったことで、深く言及されずに済んでいるとも言える。
本書に戦争中のコルビュジエについての記述がある。意外にも、著者であるジェンクスは戦争中のコルビュジエの態度に肯定的な記述をしている。
「彼の建築は、他の建築家のものとは違って、いつまでも強靭で鋭く才気溢れるまま残っている。ひとはこの時代の彼の思想や行動を、そしてヴィシー政府は自由論者の計画を認めたのだという彼の考えの素朴さを嘆くかもしれない。しかし建築的には、彼はもっとも深いところで委任されたレベルに関する誠実さと完全な正直さ疑うことはできない。」
当時ヨーロッパにいた建築家や芸術家の多くがアメリカに亡命した。モダニズム建築を代表する巨匠である、ヴァルター・グロピウスもミース・ファン・デル・ローエも、ともにドイツを離れた。
彼らは二人ともバウハウスに関わっており、そのバウハウスはナチスによって1930年代に閉鎖させられている。閉鎖後に二人はドイツを離れアメリカ、イギリスに亡命した。
ジェンクスは次のようにも書いている。
「グロピウスはローゼンベルグとゲッペルスに妥協的な手紙を書いた。ミース・ファン・デア・ローエは反ユダヤ宣言に署名し、
一九三七年までナチスのために仕事をした。モホリ・ナジはドイツを離れた。ロシアの構成主義の建築家たちは仕事をするの
をほとんど中止し、もはや何も伝わってこなかった。イタリアでは、ファシズムは装飾をとって裸にされた古典主義の様式を
採用することによって、すべての近代建築家は実質的に妥協した。」
つまり、当時のモダニズム建築家たちの多くは活動を自粛していた。というのもナチスのヒトラーが新古典様式と呼ばれるモダニズムとは正反対の建築を好んでいたからだ。
コルビュジエはヴィシー政権下でも、アルジェリアの再興計画案など自分の仕事を進めようとしていた。またアスコラルという組織を作って活動をしていたことも、その後の著作などから垣間見ることができる。本書の第三章は次のように締められている。
「芸術家が許されないのは政治的主題に関して彼の芸術を妥協することである。これは、ル・コルビュジエは決してしなかった。」
ブルータリストとしてのコルビュジエ
第四章は1946年から1965年までを対象とし、コルビュジエの作品が、いわゆるブルータリズムと呼ばれる作風になっていくことが書かれている。取り上げられている作品は、マルセイユのユニテ・ダビタシオン、ロンシャンの礼拝堂、チャンディガールの議事堂、ラ・トゥーレット修道院など。
ブルータリズムはコンクリート打ちっぱなしの荒々しく彫刻的な外観を持つ。かつて、シンプルで白い箱のような建築がコルビュジエの代名詞であったが、そこから大きく変化していくさまが見られるようになる。
ジェンクスは1950年代以降の各作品を詳細に記述している。モダニズムからポストモダンへと変わりつつある萌芽をここに見つけていたのかもしれない。