「第一機械時代」とは
近代建築黎明期を扱った建築史関連書籍のなかで最重要な一冊だといえる。タイトルにある「第一機械時代」とはなにか。著者のレイナー・バンハムは産業革命による機械化から自動車の登場あたりまでの時代としている。つまり西暦1800年頃から1920年代あたりまでとなる。また執筆時点の1950年代後半を生活に大きな変化をもたらす数々の家庭電化が登場した「第二機械時代」と定義している。
「第一機械時代」、機械の影響によって建築に関する理論とデザインに変化がおきはじめた。建築史でいうとちょうど近代建築の誕生にあたる。本書の特徴として、重要な建築書を時代順に観察するという形式がとられている点がある。
近代前夜からの建築史を記述するにあたり、その時代の中心的な理論や代表する建築家によって書かれた文章を参照しながら進行していく。参照される文章を書いた人物がどこから影響を受けたのか、またその文章によってどのような影響をもたらしたのかということを説明していく。
アカデミズムから生まれた二冊の大著
まずはじめに言及される書籍はオーギュスト・ショワジイの『建築史』とジュリアン・ガデの『建築の諸要素と諸理論』だ。ショワジイの『建築史』は日本語の翻訳があるが、広辞苑のような厚さの本で二巻分ある。ガデの『建築の諸要素と諸理論』も全五巻からなる大著だ。ガデはアカデミー、いわゆる古典主義的な教育を受けた人物だ。ガデが師事したアンリ・ラブルーストもアカデミーの人物である。
ガデはラブルーストからの流れを汲み、19世紀初頭から新古典主義の最盛期までのアカデミズムの伝統につながる。ガデの著作についてバンハムは「かさばった大部のもので、ぜいたくで高価でもあり、広く読まれるというようなものではなく、その置かれる場所は学生の下宿部屋であるよりもむしろ、図書館の書棚であった。」と書いている。とはいえ古典主義の中心でありながら、近代建築の誕生に与えた影響がある。
バンハムはガデの思想のなかで「要素を構成」するという概念に注目する。それは諸要素の集合を意味し、アカデミー派にも近代派にも共通するデザイン哲学を作り上げているという。
ガデが「構成」をテーマにしたのに対し、ショワジイは「構造」をテーマとする。しかしガデのときのようなわかりやすいかたちでの近代建築への影響は説明されない。むしろ、こ の時代に書かれた書籍のなかで重要なものであるショワジイの『建築史』が、その後の近代建築へといたる変化を認識していなかった点をバンハムは指摘する。
近代建築にとって、より重要な存在はショワジイの後継者であるオーギュスト・ペレ-とトニー・ガルニエであることを述べて、ショワジイの章は締めくくられる。
ペレーのコンクリートとガルニエの「工業都市」
ペレーとガルニエもアカデミーで建築を学んだ人物だ。
当時の建築は古典主義的なアカデミーが支配していた。ガルニエはアカデミーの権威からのお墨付きともいえるローマ賞という奨学金付留学制度の受賞者だ。ローマ賞の受賞者はメディチ家の資金援助のもと、ローマに留学し、そこで古代都市の復原研究のレポートを作成するのが慣例であった。
ガルニエはここで、「工業都市」という架空の都市の研究を「でっち上げ」た。これは、いまでいうところの都市計画案の作成に近いものともいえる。古代都市研究をするべきところを架空都市の研究をおこなったのだ。保守的なアカデミーの、その最高の栄誉であるローマ賞の受賞者が、賞の恩恵のもとで研究、作成するレポートでアカデミーに反旗を翻したともいる行為だ。当時、大変なスキャンダルになったが、この「工業都市」はその後、トニー・ガルニエの代名詞として建築史に足跡を残すことになる。
ペレーについてはコンクリートの使用という点において近代建築へ与えた影響は大きい。このときペレーは、それまであった木造構造とフォルムに鉄筋コンクリートを流用した。この木造構造とフォルムこそ、ショワジイの影響であった。
ペレーが建築史において、その名が取りざたされるのは彼の教え子が近代建築の巨匠ル・コルビュジエであることも大きい。ここに「ショワジイ/カデ」-「ペレー/ガルニエ」-「コルビュジエ」というアカデミーから近代建築へと繋がる系譜が見えてくる。
表現主義への評価
つづいてバンハムはドイツの状況について語る。
ここでバンハムは表現主義とよばれる運動を評価している。表現主義とは近代主義とも古典主義とも異なる潮流である。視覚的なデザインにのみ注目するならば、ポストモダン以降の建築、とくにアンビルドとよばれるものに近い。
古典主義建築が華麗で絢爛な装飾を備えた美術的な建築であるとするならば、近代主義建築とはスマートかつシンプルで機能的な建築だ。近代主義建築は無機的とも言い換えることが出来る。
表現主義の建築とは斬新なフォルムをもった有機的な建築だ。古典とも近代とも異なる潮流だった。バンハムは表現主義的な建築家を、「当時の建築家のうちでもっとも創造的な人物」と評している。またその一方で近代主義的な建築家に対しても、「純然たる機能の提供」をおこなったと正当な評価もしており、その視点に偏りはない。
アドルフ・ロースと装飾について
近代主義建築に相対するものとして、既存の古典主義建築があった。古典主義建築の特徴としては華美な装飾があげられる。それを否定するかたちで近代建築がある。しかし近代建築以前にも、装飾に対し否定的な考えを持つものがいた。
1910年頃、すでに装飾は嘲笑の対象であったという。それはデザイン能力の欠如のあらわれと見なされていた。その後、装飾のなかでも「よい装飾」と「わるい装飾」とに分類されるようになる。
アドルフ・ロースは、すべての装飾を絶対に排斥すべきとし、『装飾と犯罪』という著書を残した。ここではアール・ヌーボーをはじめ装飾的な特徴をもつものは攻撃の対象とされた。
”近代建築”という概念と進化しつづける科学技術について
バンハムの記述はコルビュジエやミース・ファン・デル・ローエ、ヴァルター・グロピウスなど近代建築の代表的な建築家を参照しながら機能主義に関するものへと進む。そして機械の進歩、科学技術の進歩に戸惑っているかのように見える部分もある。
つまり技術や機械、工業と密接にかかわりあう近代建築が、その絶えず進化していく技術の変化に対応しきれないまま、定型や理論化というかたちで形骸化していくことを危惧している。これは「近代建築」として定義したときに、あらかじめ決まっていた運命のようなものだ。つねに変化していく科学技術を取り入れていることで成立しているものを定義づけという固定化することによって生じる矛盾が近代建築の限界としてある。
技術や機械の進歩は絶えず建築を変えていった。やがて近代建築という範疇では収まらないものが誕生した。それは「ポストモダン(-近代のあと)」と呼ぶしかなく、カテゴライズ不能な状況に陥るしかなかった。
バンハムは本書執筆時点の1950年代を「第二機械時代」と称し、明確に「第一時代」と分けている。当時、「第二機械時代」を近代主義の範疇に含めて考察しても、おそらく問題にされることはなかったであろう。つまり「機械時代以降」ということで1950年代までを包括的にとらえて建築史を書いてもよかったはずだ。しかしバンハムはそうはせずに、あくまでも1920年代までの考察で留めている。それは近代建築にやがて訪れる、ポストモダンへの変化を敏感に感じ取っていたバンハムの嗅覚がそうさせたのかもしれない。