おもしろい本
著者のアドルフ・ロースは1870年に現在のチェコに生まれた。その後、ウィーン、パリを中心に活動した建築家である。建築史においては、「近代建築の地平を切り拓いたパイオニアの一人」と位置づけられる。実作も残されているが、当時は「あまりに装飾がなさ過ぎるために景観を阻害する」ということで、建築許可が下りないことがたびたびあったようだ。
本書は複数の論文を集めた構成になっており、これらはロースの全集から抜粋されたものたちである。執筆当時、ヨーロッパの建築はアカデミーを中心とした古典主義が主流だった。ロースは「近代建築のパイオニアの一人」とされていながらも、古典主義を否定してはいない。むしろ古代ローマやギリシャの建築から学ぶべきであると主張する。
古典主義から学ぶべき
たとえばロースは本書のなかで次のような主張をしている。
「五〇〇年前に人を喜ばせたものが今日でもそのままあてはまるとは限らない。当時は涙を誘った悲劇でも今日では興味本位に鑑賞され、同じように涙を誘うとは限らない。それは世の中が変化するからだ。ところが建築物はこれとは異なり、世の中が変化してもそのまま存在する。このことから建築というものは、時代精神が変わっていっても、自身はあまり変わらないという、もっとも保守的性格をもった芸術だといえる。建築家は、単に自分が生きる時代のために建築を設計するだけでなく、後世の人々もまた、その建築家が遺した作品を享受するということを理解する必要がある。そうなると、建築には確固とした、不変の尺度というものが必要となる。その尺度とは、現在、そして将来とも古典ギリシャ・ローマである。将来の偉大な建築家とは古典主義者ではなかろうか。」
以上のようなロースの主張からは「近代主義」よりも「古典主義」の方が近いようにも思える。しかし彼の主張を読んでいくとその印象が変化していく。
古典主義からは「学ぶ」べきであり「模す」べきではない
ロースは「古典主義から学ぶ」ことを推奨するが、「古典主義を模す」ことに対しては徹底して拒絶した。
まずロースは「イミテーション」という語を用いて否定する。イミテーションとは、その素材を「模す」ような加工を施すことだ。たとえば堅く丈夫な木材のように表面を加工するようなことをさす。
ロースは次のように言う。
「我々は、労働の量をより重んじる時代に生きている。そしてここで十分な金が無いということになったらどうなるか? 労働時間を偽る、すなわち材料のイミテーション化が始まるのである。そしてこのイミテーションという行為は、我々の多くの手工業の分野において、そのモラルを失わせてしまった。壁の仕上材は壁紙を貼ったものだとしても、紙であることを決して見せてはいけなかった。だからその壁紙には絹のダマスクスの紋織かゴブラン織りか、あるいはジュータン織りの模様がなければいけなかった。」
ロースはまた以下のようにも主張する。
「そもそも貧困であることは、恥でもなんでもない。誰もが貴族の家に生まれることができるというものでもないのだから。社会的に同程度の人達と一緒に、ある建物の中の賃貸住居に住むことを恥ずかしいと思うことは、もう止めようではないか! 昔の建築様式で建てられた建物に住みたいと思う人間ではないこと、これを恥と思うのは、もう止めようではないか! そうなれば、我々は近々、我々の時代の新の建築様式をもつようになるのである。」
「自分に気に入ったものを買う、自身に気に入るように行動する! そう、そうすること自体がもう既に、我々の様式を表現しているといえるのだ。」
このような考え方は「過去の様式」からの脱却を意味し、ここに近代の地平が見えてくる。
装飾は罪悪
ロースと近代を結びつけるものとして、装飾に対する嫌悪が「近代」である点があげられるだろう。ロースは「民族の進歩の程度が低ければ低いほど、それだけやたらと装飾を使う」という。近代においては「装飾は罪である」というのだ。
ロースの次のような文章はとくに強い印象を残す。
「近代人というものは、刺青などしていない顔の方が、している顔などより、よほど美しいと思うのであり、例えその刺青があのミケランジェロ自身の手になるものだとしても、これは変わることはない」
またロースは次のようにも述べる。
「自分の顔を飾りたてたい、そして自分の身の回りのものすべてに装飾を施したいというのは造形芸術の起源である。しかし、それは美術の稚拙な表現ともいえる。芸術はすべてエロティックなものだ。芸術とは、芸術家が自己の内部にどうしようもなく充満するものから解放されようとして、壁になぐり描きしたものである。だが我々の時代で内なる衝動から壁にエロティックなシンボルを落書きするような者は犯罪者か変質者である。人がそうした変質的な衝動にもっとも駆られるのは便所の中である。となると一国の文化の程度は、便所の落書きの程度によって推し測ることができる。子どもにあってはそれはごく自然なこと、このごく自然なことが近代人にとっては変質的行為になる。つまり、文化の進化とは日常使用するものから装飾を除くということと同義である。」
このロジックにみられるロースの諧謔さ、冗談をまじえた語り口に本書のおもしろみがある。
さらにロースは饒舌に語る。
「装飾は犯罪者によって産み出される」「装飾は国民経済や健康、それに文化の進展を損なうことで罪を犯している」「装飾は労働力の無駄使いであり、健康も損なう」「今日では資材の無駄使い」「資本の無駄使い」「時代時代によってつぎつぎと装飾を変えるということは価値の下落を早期に招くことになる」
つまり、ものの形は、そのものがものとして寿命がある限り、長持ちする。しかし装飾は飽きられればそこで価値がなくなってしまう。
「装飾は罪悪」に対する反論
ロースはまた自論に対し、装飾家が主張するであろう反論として、次のようなものを想定している。
「ある消費者が家具を買ったとする。十年後にはもうその家具がイヤになったとする。すると十年後に家具を買い換える。こういう人の存在は、寿命が尽きて使えなくなるまで買い替えない存在よりも、ずっと好ましいものだ。ものを作る産業界がそれを望んでいる。人が次々とものを買い換えることによって多数の人たちが仕事にありつくことができる」
たしかにこれは一理あるかもしれない。資本主義社会では商品を消費することであらたな商品を購買する。そのことで経済が循環していく。はやく消費してもらえればそれだけ商品は売れることになる。それによって商品をつくる人の仕事も増える。社会全体の富が増えて豊かになる。これは現在、私たちにとって自明のことだ。
これに対し、ロースは次のように応える。
「それなら私にもいい考えがある。都市に火を付けて燃やしてしまおう。国中に火をつけて燃やしてしまえばいい。そうすれば沢山、金儲けができ、楽な生活ができて、国中、沸きかえるだろう。」と。
もちろん、すぐに「冗談」であると断りを入れているが。
ロースは言う。
「私がものを買う場合でも、形と材質が気に入り長く愛用することができ、つくりがよくて丈夫たと確信したら、形と材質が劣ったものの四倍の金を支払ってでも買う」
はやく飽きさせて次なる商品を買わせるために装飾を施すなどということよりも、より健全であるといえよう。
アドルフ・ロースにとっての建築とは
本書のおもな主張はタイトルにあるとおり装飾は罪悪であるということだ。『装飾と犯罪』は本書に収録されたひとつの論文のタイトルである。ほかにも興味深い論文が多数収められている。それらにはおもしろみがあるだけでなく、建築に対する真摯な姿勢を感じとることができる。
ロースは建築をどのようなものとしてとらえているか。
「我々が森の中を歩いていて、シャベルでもって長さ六フィート、幅三フィート程の大きさのピラミッドの形に土が盛られたものに出会ったとする。我々はそれを見て襟を正す気持ちに襲われる。そして、それは我々の心の中に語りかけてくる。「ここに誰か人が葬られている」、と。これが建築なのだ。」
このように建築をとらえているロースが自身の信念に反し、時代に迎合し、当局の許可をもらうために過剰な装飾を施した建築をつくるはずがない。
実際に建てられたロースの建築物に対して、当時の新聞は、装飾もなく窓が整然とならぶ様を「下水の蓋」と揶揄したという。このような理解されない立場に悩んでいたせいか、ロースはながいあいだ神経性胃痛に苦しめられていた。本書の随所に自身の建築がいかに受け入れられていないかということが書かれている。それでもロースの主張は一貫している。
本書には装飾がないことで建築許可が下りない時代において、自分の信じる「建築」のあり方を貫いた建築家の信念が詰まっている。それははからずも「近代建築」として世を席巻することになるのだが、装飾に対する批判よりも、時代に迎合しないその姿勢こそ、のちの近代建築家たちへ与えた影響は大きいのではないだろうか。