アドルフ・ロース「第三の書」
アドルフ・ロースは1870年生まれのオーストリアの建築家。生前に『虚空にむけて』『にもかかわらず』の二冊の本を出版している。ロースには他にも新聞、雑誌等に発表した文章が多数ある。本書にはその生前出版された二冊には収録されていない論考から45篇を収めている。発表された年で、最も古いものが1897年、最も新しいものが1931年。内容は建築に関するものから、自身の評価に対する不満、映画についてや、当時のウィーン市民についてなど多岐に及んでいる。
近代建築の先駆者
ロースは一般的にはモダニズム建築の先駆的な作品を発表した建築家として知られている。なかでもウィーンのミヒャエル広場に建てられているロースハウスがとくに有名だ。
ミヒャエル広場は古典様式で建てられた建築物が囲うように並んでおり、その中にロースハウスがある。「装飾は罪」と述べたロースは、ロースハウスのファサード(正面)の装飾をなくし、窓が整然と並ぶ単調なものとした。ミヒャエル広場をはさんで、ロースハウスと対面して建てられているホーフブルク王宮の豪華絢爛さとは対照的で、当時ロースハウスは景観を損なうとして強く非難された。
このときのことについて、ロースは『ミヒャエル広場にある私の建物のファサードに物言いがついた件』『ミヒャエル広場の私の建築』という二篇で自身の主張するところを書いている。
ロースハウスとは何だったのか
現在、ロースハウスの正面には「RAIFFEISEN BANK」という文字がある。これはオーストリアの銀行名だ。ロースハウスは1987年から、オーストリアの銀行の建物になっている。
本書の中に建設当時の写真があり、そこでは「GOLDMAN & SALATSCH」とある。これは伝統的な紳士服専門店のゴールドマン&ザラチェのことであり、当時は紳士服店の建物として設計された。ロースは建物の四階から上は住居として使用し、その下の階を商業施設として使えるように設計した。商業施設部分の正面はギリシャ産の大理石を用いて古典様式風にし、四階以上の正面はモルタルでシンプルな窓のみとした。
ロースハウスは「モダニズム建築の先駆的な作品」として有名だが、じつはロースは古典主義に否定的ではなかった。そのことは本書に収録された、複数の文章からも読み取ることができる。
古典主義こそが重要だとロースは言った
ロースは『建築における新旧ふたつの動向』のなかで次のように書いている。
「いったい建築家の目的とは何か? それはある材料によって、本来材料に備わっているわけではない気分・感情を人々の心に沸き起こすことである。」
「そのためにどうすればいいか。まずはこのような気分・感情をもたらす既存の建物をじっくり観察するのである。そしてこれからつくる建築を考えるための手がかりにしなければならない。」
「どんなときでも同時代に妥協することなく脇目もふらず古典主義の立場を貫いた芸術家のみが勝利の栄冠を勝ちとってきたことがわかるだろう。なぜか。建築家は自分が生きている時代のためだけに仕事をしているのではないからだ。」
建築には確固たる不変の基準があり、この基準はギリシャ・ローマの古典時代だとロースは言う。それは「現在も未来も、価値転倒を引き起こすよほどの大事件でもおこらないかぎり」変わらない。
「将来の偉大な建築家は古典主義者である」と言い、さらに将来の建築家が守るべきは、古典の教養を身につけることだとロースは断言している。
モダニズムの先駆者どころか古典主義の守旧派と言ってもいい程である。
モダンについて
ロースがモダン、モダニズムについて何と書いているか。『節約について』という文章で次のようにある。
「あるものがモダンであるかどうかを見極めたいときにいちばんわかりやすいのは隣にある古いものとうまく調和しているかどうかを見るというやりかたです。」
よくできたものは決して古くはならないとロースは表現を変えて繰り返し述べている。
「私はたくさん靴を持っているけれど、優れた靴職人のつくった靴はずっと履きつづけられるから、つねにモダンでありつづける。」「ずいぶん長いあいだ同じ靴を履きつづけているけれど、それが時代遅れになったことはありません。」
決して目新しいものをつくる必要ははない。ロースは「いまの流行を乗りこえて次の流行の先取りする」「自分の仕事は乗りこえること」、そういった考え方は間違えだと語る。
「建築家の存在理由は、人の人生の深さを推し量り、何が必要とされているかを徹底して想像し、それが将来どうなっていくのかということまで考え抜き、社会的弱者を助け、可能なかぎり多くの家庭に完璧な家具や家を提供することです。けっして新しいフォルムを生みだすことではない。」
炎上して干されるロース
ロースは、さまざまなことを文章にしている。建築設計をしては建築局とぶつかり、文章を書いては非難を浴びる。たとえば『私-よりよきオーストリア人として』というなかで、ロースは自分に向けられた誹謗中傷として次のような言葉を挙げている。
「講演や著作だけでなく、国内外で耳目を集めている批判的言説によってロースは祖国に対し、とくにウィーンに対して害をおよぼしている!」「一言でいえばロースの罵倒によって外国で得てきたオーストリアの信用や名声が失墜しようとしているのだ。」
もちろんそれに対しての反論がこの文章の目的なのだが、当時のロースへの風当たりの強さがわかる。
また、『ウィーンの癌』というタイトルの文章では、1927年5月のフォス新聞の記事を載せている。それは「かつておもに建築家として活動し、いまではすっかり建築界の芸人じみてきたアドルフ・ロース」という紹介ではじまる批判記事だ。
『アドルフ・ロース、芸術家と子供へのみずからの態度を語る』という1928年の文章では、ロースが家宅捜索され、ポルノ写真が見つかったことへの弁明を述べているのだが、そのなかの一文で次のようにある。
「私はウィーンでは大きな建物をひとつ建てていますが、それ以降十八年間まったく注文がありません。なぜ誰も私に頼めなかったというと、私が動くと必ず建築局といざこざが起こるからです。」
1928年時点で18年間ということは、1910年のロースハウス以降、注文がこないということだろう。実際にはウィーンで小規模な設計はしているのだが、大きな仕事はできないでいた。
モダニズムの先駆者なのか?
『ヨーゼフ・ホフマンのこと』『アドルフ・ロース、ヨーゼフ・ホフマンについて語る』という1931年の文章がある。
ロースは1896年にアメリカからウィーンに帰ってきた。そして帰国してみると、仲間の建築家たちが皆、芸術家然とした格好をし、「アメリカ的にいえば道化のようにみえた」と書いている。彼らは皆、豪華な素材を使って高価な服を作らせていた。ロースは、その後ロースハウスとして設計することにもなる、紳士服店のゴールドマン&ザラチェをひいきとしていた。
本書では、ヨーゼフ・ホフマンという建築家の名前が多く登場する。それは後半にいくに従い批判の対象として登場することになる。ロースが1896年にウィーンに帰ってきたときにいた「道化」の一人だ。
1896年、ロースがホフマンに自作のシュテッスラー邸を見せたところ、その無装飾性にホフマンが衝撃を受け、それ以来ホフマンもロースがひいきにしているゴールドマン&ザラチェに行くようになったという。
このときからホフマンはロースの模倣をするようになり、ウィーンの建築界で出世していくことになる。しかしその内容については、ロースは手厳しい表現をしている。つまり、ロースはホフマンが自身の考えを「誤解」していると書く。
「誤解はそのままワイマールのバウハウスに受け継がれ、新即物主義と呼ばれるようになった。後年、この概念をヨーゼフ・ホフマンがふたたびとりいれることになった。一八九六年以降、こうしたあらゆる災難に装飾による複雑なフォルムが加わっていった。それは役に立たない構成であり、一部のマテリアルの過剰使用(コンクリート、ガラス、鉄)である。バウハウスや構成主義が志向しているロマン派的傾向は、装飾に偏ったロマン派の流儀とどっちもどっちである。」
アドルフ・ロースの立ち位置
ロースはモダニズムよりも古典主義を重要視していた。古典を学ぶべきだと述べており、その根底にあるのは「よいものは変わらない」という考えだ。
「装飾は罪」という言葉は、様式美の古典から機能美の近代へ進むときにその時代精神を端的にあらわしていた。ロースはそのことでモダニズムの先駆者と評されているが、実際はそうではなかった。古典主義の重要性を繰り返し述べ、建築家は流行やその時代の要請に乗るべきではないと説く。
ロースはどのような時代であっても変わることのない本質を見ていた。20世紀前半、世間から激しく非難されても負けることなく立ち向かったロースが、仮に現在の「モダニズムの先駆者」などという評価を見たらどう受け止めるだろうか? おそらく口汚く反論し炎上していることだろう。しかし、それこそがアドルフ・ロースなのだ。