◆レイナー・バンハム
『環境としての建築』

全部読む

◆コーリン・ロウ
『イタリア十六世紀の建築』

全部読む

◆ヴィンセント・スカーリー
『アメリカの建築とアーバニズム(下)』

全部読む

◆ウィトルーウィウス
『建築書』2/2

全部読む

◆R・ヴェンチューリ
『ラスベガス』

全部読む

◆ヴァルター・グロピウス
『建築はどうあるべきか』

全部読む

◆ルイス・カーン
『ルイス・カーン建築論集』

ルイス・カーンの作風と建築論

ルイス・カーンの建築論はその建築作品同様に抽象度か高く、哲学的だ。カーンが使用する用語のなかにはハイデガー哲学で使用される語も多くある。

本書では建築に関する具体的、あるいは技術的なことよりも、建築家としての姿勢についておもに書かれている。それは芸術について語ることでもあり、美について、あるいは表現について語ることでもある。そして最終的には人間そのものについて、または生きることについて語られる。

インド経営大学 (https://ja.wikipedia.org)

インド経営大学
(https://ja.wikipedia.org)

視覚と美について

美しいということはどういうことだろうか。カーンは次のように言う、「視覚が生じたとき、視覚の最初の瞬間は美の自覚でした」。さらに、美それ自体をトータル・ハーモニー、つまり完全な調和であるとしている。

それは視覚という感覚で受け取るものであり、論理や知識で理解するものではない。真に優れた芸術作品は美それ自体をあらわす。そして視覚で受け取った美が否定されることはない。なぜなら否定するためには理由を必要とし、理由は論理や知識からなるからだ。美そのものはそれらを越えたところにあるとカーンは主張する。

ソーク研究所(wikipedia.orgより)

ソーク研究所
(https://ja.wikipedia.org)

建築家とは空間の美を伝える人である、とカーンは語る。空間の美とはなにか。建築家がつくりだす空間は自然にあるものではない。空間の美には美そのものであると同時に、意味が必要になる。
「空間の美とは空間の意味であって空間が意味に満ちていること」

カーンは建築のデザインについて次のように言っている。
「寝室が野原にあると考えます。屋根がなければ星が見えます。頭上すべてが窓ですから、窓はわずかでよいでしょう。ところが、そのルームが寝室であるだけでなく、ときには病室になることに気づきます。また紅茶を飲みたいときにはキッチンがそばに欲しくなります。」

そうして空間はルームになる、壁、屋根、天井、キッチン、とその空間の意味にあわせてつくられていく。空間が意味に満ちていくと美へと近づくという。

カーンが作った最大の建築 バングラデシュ国会議事堂 (https://ja.wikipedia.org)

カーンが作った最大の建築
バングラデシュ国会議事堂
(https://ja.wikipedia.org)

空間の意味と永遠性

芸術について書くとき、カーンは優れた芸術は芸術家には属さないと語る。
「最高に優れた捧げもの、最高に優れた作品、芸術作品の最高に優れた<部分>、ある芸術家のもっとも<素晴らしい>部分、それらはその芸術家には属しません。」

最高に優れたものは永遠性のなかにある。そして芸術家はその永遠性の触媒にすぎない。
「その永遠性をどのように解釈したかというその方法だけが芸術家に属します」

フィリップ・エクスター・アカデミー図書館(wikipedia.orgより)

フィリップ・エクスター・アカデミー図書館
(https://ja.wikipedia.org)

視覚が生じ、最初に美を感じたとき、なぜそれを美と認識しえたのか。それは説明を超えたところにある。同様に永遠性も説明を超えたところにある。永遠性は直接的に説明することはできない。その周辺について書くことしか出来ない。
「私は建築をセンスとして、永遠性の表現として考えます。詩人や画家についてもそのように考える」と述べ、カーンは「わられわれは表現の道具なのです」と語る。

建築を拡大したものとして都市計画がある。
「もし私が都市計画を教えるとすれば、都市についてのすべての統計上の知識を捨てるでしょう。なぜなら、都市は毎日異なる場所だからです。都市は多様な関心からなる活動によってつくられています。人間のつくる規則は変えられることを前提としていますが、一方、自然の法則は変えられません。」

永遠性とは自然の法則に基づき、変わることがない。そこに美を美と認識可能な根拠がある。それは人間がつくりだしたものではなく、そのはじまりから、あるいは人間が存在する前からあったものである。

元初、プレゼンス、光

永遠性は表現されるものであり、建築家や芸術家はそのための道具にすぎない。
このようなカーンの文章は哲学的であるともいえる。言葉では説明し難い事柄をあらわすために必要な語をつくりだす。その語は明確に定義することが難しいものとなり、文脈のなかで捉えながら理解していくしかない。

本書では、永遠性のほかにも、「元初」「プレゼンス」といった言葉が多用される。「元初」は単なる時間的な意味での、はじまりというだけでなく、その起源、根本などといったニュアンスを持っている。「プレゼンス」には存在、かたちといったところだろうか。

たとえば次のような使われかたをする。
「建築はプレゼンスをもたないが、しかし精神の自覚として存在します。建築作品はその精神の本性を映す捧げものとしてつくられます」

建築そのものは”かたち”あるものではないが精神のなかに存在している。そしてその発露として、創作されたものが建築作品ということになる、と解釈すればよいだろうか。プレゼンスに関連してカーンは光の重要性を語る。光は全プレゼンスの賦与者であるといい、「全プレゼンスの賦与者である光は、物質の形成者であり、そしてつくられた物質は影を投げかけ、その影は光に属する」とも語る。

これは視覚が生じて、美を知覚したことに通じるかもしれない。目に見えるものとは、光の反射によってもたらされるものである。そして光とは構造によって賦与されることも述べる。
「構造を決定するとき、あなたは光を決定します。昔の建物では列柱が光の表現でした。つまり光なし、光、光なし、光、光なし、光、」と。

パルテノン神殿(wikimedia.orgより)

パルテノン神殿
(https://ja.wikipedia.org)

ギリシア神殿などに見られる列柱では、柱がある部分は光を遮り、柱と柱の間から光が内部へと差し込む。さらに屋根はそこから生じていることも主張する。 
「ヴォールトはそれから生じ、ドームはそれから生じます」
ヴォールトとはかまぼこ型をした天井様式のことであり、ドームとは半球型をした天井のことである。

本書の第六章、「沈黙と光」と題された文章のはじまりで、カーンは言う。
「私は平面図を見るとき、それをあたかも構造と光による空間圏域のシンフォニーとして見るようにしています。」

表現するということ

カーンは、永遠性というものがあり、それを表現することが芸術家の仕事であるという。それはまだ見ることもできないものであり、語ることもできないものである。

ファースト・ユニタリアン教会(wikipedia.orgより)

ファースト・ユニタリアン教会
(https://ja.wikipedia.org)

「まず最初に、建築は存在しないということから始めましょう。存在するのは建築作品です。」
そして存在した建築作品とは、建築への捧げものである、とカーンは言う。
 
この「永遠性の表現」とは建築家だけでなく、詩人も画家もそうである。また芸術家だけではない、医師や法律家やあらゆる職業において、カーンはそのように考えている。なぜならばカーンは、人間とは表現するものであると考えているからである。

本書の第七章にある「ライス大学講義」は詩のような体裁で書かれている。

生きる理由は表現することであり……
憎しみを表現することであり……
愛を表現することであり……
その人の才能を余すことなく表現することであり……
すべての触れ得ないものを表現することです。
心は魂であり、
頭脳は道具である。われわれは心からかけがえのなさを引き出し、
頭脳から態度を選び出します。

カーンは生きることとは表現することに他ならないと考える。それは芸術作品を創作することだけではない。湧き上がった感情を言葉で相手に伝えることも表現だ。そのとき表現されるものとは、それまでそこにはなかったものなのだ。芸術の本質も表現にある。それまでそこになかったものを創りだす。何をもとに創りだせばよいのか、その根拠になるのが永遠性ということになる。どのように永遠性を解釈したか、それが表現につながる。それまでなかった解釈のしかたで永遠性を表現するとき、真の優れた芸術となる。

カーンは次のように語る。

科学は、そこにあるものを見いだすが、
芸術家は、そこにないものをつくりだします。

.

『ルイス・カーン建築論集』

◆L・B・アルベルティ
『建築論』1/2

全部読む

1 2 3 4 5 9